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京の料理 京の社寺 京の女

京料理
(一)時雨のときは

薄暗(うすぐら)おすね、そろそろ来まっせ、けど慌てる事おへん、すぐやみますし、北山時雨の話である。
そんな時、襟元をかき合わせて思うのはすっぽん鍋、上品そうな事をいうていても、京のすっぽん料理は日本一。
心臓がとんとん動くのをぶつ切りにし、高熱で煮上げる。
後は酒をたっぷり入れた雑炊。悪酔いしないのはすっぽんのアルカリ性による。

(ニ)河豚に温まる

京都の料理は、京都という風土にたゆみなく磨かれ、
その独特の気候の中で育まれて来た。
しかしわれわれは至って新しもん好き、他所から運んで来たものを工夫して、
たちまち王座に据える。 鼈がそうだった。
鱧、鯰、それに冬といえば河豚がそうだ。
 河豚の草分けは祇園富永町の一軒の割烹料理店、
先代が本場の下関で腕を磨いて来た。
師走の頃、南座の役者衆もちらほらと顔を出し温まっていく。

(三)空の景色ものどやかに

二十一世紀の幕開け、心はやはり改まる。
しかし濃い白味噌のお雑煮だけは変わら ない。
昔の本には「雑煮の餅(かちん)に命の根も強かれとことぶき、
芋の頭(か み)と言ふからに、 元結らしく結び昆布を飾り、
昨日に変はらぬ今日とは言ひなが ら、空のけしきものどやかに〜」 とある。
めでたき慣例は変わらぬがよい。
根引きの 松を飾り、打ち水のきいた門口は清新に、京の料理の覚悟の程が伺い知れる。

(四)夜もすがらなる

 二月の京都の空はどこかに雪雲を潜ませていて、
山深く若狭などからの風に乗ると、たちまちに都大路には雪片が渦巻く。
そんな折のこの月いっぱいは夜咄しのシーズン。
蓋向は鰤の酒蒸し、汁は汲み上げ湯葉の金柑巻き、
煮物は丸豆腐、預け鉢は京の定番、鯛蕪と。
ろうそくに照らし出される亭主の心尽くしが嬉しい。
暖かいものが軽く按配されており、夜もすがら、しみじみ親しむ趣きとはなる。

(五)夢ははっきりと春

 三月の天気の裏切りはひどいもの、
初旬のお水取り、お彼岸前の比良の八講荒れ終いがそれ。
しかし都をどりのポスターが上がるとさすが人の足元も色めき立って、
赤貝のぬた、器は菱形になど求め始める。
蛸の桜煮、海老は青葉巻きに、お造りはやはり鯛、 煮物は清し汁にて蛤しんじょがよろしく、
ご飯は桜粥にしてともう夢ははっきりと春。
山路に野に草萌は祈りに似た香りを捧げて。は

(六)定番 若竹煮

  いろいろなものが人為的になっているのにがっかりするこの頃であるが、
竹の子はどうしても季節を待たねばならないところに深い喜びを感じる。
その時すかさず京の料理には定番、
若竹煮があったことに気付く。
いうまでもなく若は若布のこと、
竹の子はその春一番のもの、
竹薮で一本見つける度に鉦をたたいて知らせ、 喜んだと言う。
海と山のものの取り合わせにこそ京の料理人の本命があったが、
そこには人間の生の息吹さえ感じられるではないか。

(七)えんどうの青が冴える

  蒸せ返る青葉の中でいただくものは、油目、
これは海岸近くにいる磯魚の一つだが、その木の芽焼きが絶品。
五月はその盛り、鮎の前でもあり、梅雨の水をたっぷり呑んだ鱧が出る前の美味。
向付けには贅沢でも初鰹、男の子の節句を祝って粽寿司も頭に浮かぶ。
甍の波〜〜とは唄えなくなったが、マンションの窓に鯉のぼりがはためいている。
やはり日本の五月だ。
炊き合わせは白ずいきと小芋にえんどうの青もそえて。

(八)夏のお呪(まじな)いを

  蒸先ず向付けに水無月豆腐を置いてみよう。
昔、夏に氷をいただくのは疫病にかからぬお呪い。
朝廷では氷室と言う山陰の穴に冬の氷を保存しておいた。
しかし何時までも続かず氷に似た餅菓子、「氷かちん」を食べるようになった。
庶民はいうに及ばずである。
向付けはそれを真似た豆腐。
泥鰌(どじょう)と牛蒡のささがきと軸三つ葉の柳川鍋も
この季節に乙なもの。元気百倍する。

(九)鮎寿司とすっぽんの煮凝り

 思えば、星合いの季節。
七夕は裁縫の上達を祈る祭でもあるが、
農村では無垢な乙女が織った布を水の神に捧げて雨を乞う行事でもあった。
折しも空を見上げる足元の水に黙ってすっぽんがいたりする。
そんな時、水遊びの四つ手篭に鮎寿司を入れてみたり、
すっぽんの煮凝りをつくって竹の筒につめ、
筒の口にくちびるを当ててすすり上げるのも面白い。酢取茗荷を添よう。

(十)いまだ涼こそ馳走

 蓮の葉に鱧の子、鱧の肝、おくらなどを煮こごりにした琥珀の露を置く。
冷やし鉢は葛そうめん。海老、しいたけ、玉子とうふ、蛇の目きゅうりが冷ややか。
昼の暑さはまだまだ、残暑というものは、もうええというてからの暑さ。
せめて戴くものに涼を盛り、住まいも畳には網代はそのままに、
季節の変わり目は早いしつらえ(設備)が粋とはいうが、
今しばらくの難しいときではある。

(11)月光に光る鱧のさざなみ

 九月は端境期(はざかいき)といい、ものの出回りの変わるとき、
出回りにくくなるとき、変わり目には空の色、風の色も何故か寂しい。
しかし、九月は、外海で生まれた鱧の子が程よく成長して、
内海に入ってくる、 美味である。
牡丹鱧もいい、お寿司にするのもいい。
晴れた夜空のお供えにそっと置いてみよう。
名月の光に見事な切れ目のさざなみが浮く。
鯖寿司はまた今が一番、しっとりと艶を見せ美しい。

(12)秋風と関東(かんと)炊き


 夜毎にすだく虫の音に肌寒さを覚え出すと、かんと炊きが恋いしゅうなる。
材料はきわめて庶民的。
大根、ちくわ、蒟蒻、はんぺん、豆腐、ひりょうす、蛸、茹玉子。
出汁は鶏ガラなどで取るが、古いものを捨てず、次々足し前を入れて使う。
家庭のもよいが、プロの味が忘れられないのはそこだ。
吉田山の神社の鳥居の傍や鴨川の大橋のたもとに灯る赤いちょうちんに
引き寄せられてしまう頃である。

(13)吹き寄せの彩り


 霜月、京都の空模様は変わりやすい。
紅葉もやがて盛りを過ぎ、掃きよせる落葉にあわれが深まる。
ご馳走もそれに似通わせて大きな朴の葉に盛る吹き寄せなどが喜ばれよう。
先ずは渋皮栗、香り高いかますの焼物、菊花寿司などに柿玉子が彩りを添えて。
柚子窯には鮎のうるか、さらに焼き松茸、海老の雲丹焼き、
ぎんなん、芋いちょう、紅葉麩が楽しみを増す。
外には時雨の音もしょうというもの。

京の社寺
(一)暗い夜道を

「正損(しょうそん)、盆得(ぼんとく)、十一杯(じゅういっぱい)」、お寺ではお盆はえらい儲かるが、お正月は損をする。
十夜(おじゅうや)はまあ一杯々々というところ。 お十夜は十一月の念仏行事、いよいよ冬が近づく。
吉田山の裾づたいに真如堂へたどる道はいまも暗い京の夜道、終わりのコオロギが心細げな声に鳴く。
お説教を聴き、お粥さんをいただいたら極楽往生間違いなし。

(ニ)かくれ念仏

十三日から大晦日までの六波羅蜜寺の「かくれ念仏」は、
空也上人が庶民の救済を願って始めた念仏踊り。
仏教が貴族だけのものであった時代、上人は粗末な衣に草鞋ばき、
首からかけた鉦を打ち、念仏を唱えて洛中を廻った。
かくれ念仏はその姿を伝 えるものでもある。
 昭和の初めまでよく似た姿で洛中のみならず刑場跡、
その無常所まで廻るものがあった。
人々は空也坊さんとも、寒い夜のお坊さんだから、
かんぼんさんとも呼んで いた。

(三)お参りは氏神さんへ

初詣は何処へ?と近年よく聞く。初詣は氏神さんへ、
お宮参りも氏神さんへわたしどもは大方そうして来た。
氏神さんは産土神、土地と結合したもの、先祖の霊の宿る ところ。
去年生まれた知人の男児は北区、玄武神社へお宮参りし、今年は初詣をし た。
王城北面鎮護の神で亀に蛇が巻き付いたものを形とする。
土地の神を探すのも今 年の命題とはしたい。
土地の神は強い運勢をもたらす。

(四)北野は梅花祭

怨んでも怨んでも、怨み足りないような最後であった〜、
奈良朝以来、京都には政治的敗残者の怨恨が積もっていた。
「去年の今夜清涼に侍す 秋思の詩篇 
独り断腸恩賜の御衣は今此に在り 
捧げ持ちて毎日余香を拝す」。
北野神社の梅花祭は二月二五日、道真の祥月命日である。
参道は梅のトンネル、梅苑は香り馥郁。
ところで二月は受験シーズン、文人道真公はいまや合格祈願の神とはなった。

(五)疏水路より山に入れば

  東山三十六峰第一五峰椿ヶ峰は大豊神社のご神体。
山は名前のとおり椿が密生する。
境内も知る人ぞ知る椿の名所。
五色散り椿、純粋の白椿、変種の侘び助など数多。
ここは旧鹿ケ谷村の氏神さん、
「くすり喰(くい)人に語るな鹿ケ谷」の蕪村の句の張り紙が山迫る社殿裏にあった。
くすりはイノシシ、地名の起こりだ。
なお市中の梅が終わったらここに来て見るがいい、紅梅の枝垂れがすごい。

(六)菜の花の中のカンデンデン

  四月、菜の花に酔って聞くのがカンデンデン、
桜に酔って見るのが都をどり。
古都の春は夢のうちに明け暮れる。
昔の壬生は一面の菜の花畑、その向うに壬生寺の屋根が見え、
春風に乗ってカンデンデンが聞こえていた。
「そら、綺麗におしたえ、そんな中を汽車がポッポポッポ通って、
お室(むろ)や嵯峨の方まで見えてなあ」と
返らぬ昔話も聞こえる 壬生寺の仏教無言狂言であるがいまなお健在、
京童はその鉦の音を名に単に「カンデンデン」と呼んで来た。

(七)芭蕉も目を細めつつ

  嵐山藪の茂りや風の筋 芭蕉 嵯峨祭の頃、
愛宕山から嵯峨野に吹き下す風が竹薮に淡緑の線をサアッと描く。
淡緑に見えるのは風で葉裏がひるがえるからだ。
嵯峨野祭は愛宕神社と小倉山の裾の野々宮神社の合同祭礼。
五月第四日曜、お渡りに剣鉾を振り鳴らして五人の供奉者がつく。
祭の前に激しい訓練が行われるが、その音がカラン、カランと夜空に響き渡るのがいい。
当日はその若者たちが誇らしく腰をひねって練り歩く。

(八)快音が谷に谺する

 六月二十日は鞍馬寺の竹伐り会式。
折りから梅雨、「ジャジャ降りの中でもやらはるのどっせ」
山門前の茶店の人はそう言う。
平安朝の頃、鞍馬の山中に夫婦の大蛇が棲んでいて、
村の人を怯えさせていた。
たまたま寺の峯延(ぶえん)上人が読経中、
飛びかかろうとした雄蛇を本尊毘沙門天の法力を借りてズタズタに斬り殺してしまった。
その故事を見せるのが竹伐り会。厄除けの神事である。

(九)土着の匂いを嗅ぐ虫送り

 七月いっぱい洛中は祇園祭で持ちきり。
スサノオさんの勢いもここまでは届くまいかと、静原まで出かけることにする。
叡電「市原」から東北四キロ、鞍馬と大原の間にある集落。
十四日、日が暮れると静原神社のご神火で松明に点火し、
鉦や太鼓ではやしながら稲の害虫を
「おーくらい、おーくらい(送ろう)」
と大声で追いたてながら、
村の者総出で暗夜の里道を村外れまで行列する。

(十)門前では幽霊飴が

 八月は八日からの六道詣り、十六日の送り火、
二十三日の地蔵盆と晩夏の寂寥感が日に日に濃くなって来る。
六道は六道の辻、十万億土への関所。
我々は松原の珍皇寺の井戸がそこへの通路だと思っている。
鐘をひと撞きする度に亡き人が呼び寄せられる。
近くの六波羅蜜寺ではご詠歌がうたわれている様子。
足元では馬追虫がスイッチヨンと鳴き出して夜気の感触が身に沁みるのだ。

(11)古都は積年の哀楽に照る

 草かんむりに秋とかいて「はぎ」と読ませるほどに、萩は秋を代表する花。
その盛り頃、二十一日に三十三間堂廻り町の養源院、
淀君が父浅井長政の菩提のため建てた寺で大般若経会、
同日今出川堀川の白峰神社では保元の乱後、
讃岐に配流された崇徳院のための例祭、翌日同所近くの清明神社では湯立神楽、
祭神安部清明は精霊を駆使したことで有名。
仲秋の名月も近く古都は夢幻の白光に照らされる。

(12)天智天皇も行幸

 十月十六、十七日は蹴上の日向神社外宮、内宮の大祭日、
古式の人長舞が奉納される。
都ホテルの東側、東山三十六峰第十六峰神明山を背後に
伊勢神宮と同じ神明造りの神殿がそれである。
自然の巨大な岩石を刳り抜いた「天の岩戸」があり、
これをくぐると願い事が叶えられるという。
紅葉の頃の美しさは格別。
一号線を車で素通りするばかりでなく、時には坂道を歩いて登るべきではある。

(13)寒坊さんの季節

  堀川蛸薬師東入る空也堂は、空也上人の像を本尊とする。
上人は鉢を叩き念仏を唱えて市中を巡り橋をかけ、
道を直し、 死屍を供養し、民間に弥陀の名号を広めた。
十一月第二日曜は開山忌、
皇服茶を献茶し念仏踊を行う。
上人を見習い同じ姿に市中を巡る僧が近年までいた。
これを空也坊さんまた寒夜に回ることから寒坊さんともいった。
そろそろ深夜のその鉢の音が聞かれる季節ではあったのだ。

京の女
(一)雪文字(ゆきもんじ)

京女(きょうおんな)と呼べる人はもうおばあ祖母さんの代で終わった、でも京の女はいる。
いないわけにはいかないように。
それは、おだやかな東山三十六峰、如意ヶ獄の大文字は、
年に一回、八月十六日の夜に灯るのだけど、火床はいつも望まれていて、
雪の降り積もる日は、そこに薄墨で画いたような大の字が現われるようにと思えてならないのだが。

(ニ)段取りも仕事のうち

「仕事するより段取りせい」、お祖母さんはそういっていた。
いそがしい、いそがしいといいながら、この師走、
けっこう女たちはあちこちへいく。
一日は北野の献茶 祭、八日は嵐山の針供養、 九、十日は鳴滝の大根焚き、
そうしているうちに顔見世にもいかんならんし、締めくくりはおけら詣り。
それでも家へかえればお雑煮を炊く用意もお煮しめもちゃんと出来ている。
段取り も仕事のうちだった。
おおきに、お祖母さん!!

(三)着倒れはせえしません

「お粥かくしの長暖簾」、家紋をつけた立派な暖簾をかけていても、
奥ではお粥をすすっていると言う陰口だが、先祖は要らざるものは徹底的に始末し、
要るものには 贅を尽くした。足の裏についたご飯粒も食べた、
風通しのよい通り庭の台所では決し て食べ物を腐らすことはなかった、
そういう目につかない心掛けにこそ文化が生まれたはず。
「京の着倒れ」とか言われても京の女は倒れた事おへん。

(四)祇園・二軒茶屋の女三代

 「雪なれば梢にとめて明日や見ん夜の霰の音ばかりして」
梶女の家集「梶の葉」の挿絵は友禅染の創始者、宮崎友禅斎が描いた。
向い合った茶屋の東の内部が細やかに描かれている。
養女百合も冷泉家に歌を学ぶ。
その娘、町は後の近世南画の大家池大雅の妻となるが、
客人を泊めると夫婦は布団もないという貧乏ぶり。
三人の経緯は似ている。
男の生き方に惚れ、実に無欲闊達、その志に寄り添うて生涯を過ごす。

(五)町家に暮して

 「通り庭は適当に明るく、風通しがよく、
それに清らかな水の匂いが満ちる所だった。
電気冷蔵庫が出回っても「そんなもんいりまへんえ」と見向きもしなかった女達。
一日の用を足す食べ物の量をきっちり作るのが本領。
ご飯粒は集めて炊いて糊にした。
出来上った糊のつるりと白いお団子が何時も清澄な水に浮いていた。
一日に何度も冷水にくぐらせていたのだ。
「あほなことせんとおきやす」そんな声が聞こえる。

(六)青眉(せいび)の人

 青眉と言っても今の人にはわからなくなっている。
これは娘が初めて人妻となったとき、
眉を剃るならわしがあつて、妻となりましたということである。
上村松園は「十八、九歳で嫁入りして、
花ざかりの二十歳くらいで母になり、
青眉になっている婦人を見ると、
たまらない瑞々しさをその青眉に感じるのである。」と言った。
無論『青眉』と言う作品もある。
美しさには覚悟が見られる。
京の女には間違いなくそういうことがあった。

(七)その貫けるものは

  おくるなよかけよかけよと神山のほととぎすさえ鳴わたるなり
 大田垣蓮月 五月五日賀茂のくらべ馬を見て〜と詞書する歌。
蓮月は京生まれ、京育ち。
重なる不幸にめげず、詫び住まいを転々としながら、
終の棲家、西賀茂神光院以外は常に鴨川の東に住み続けたのは
養父や夫や子供の墓から遠ざからぬため。
土ひねりの手仕事が晩年を見事に貫いているが、
働きすぎて肩、腕が痛んでも利益を己が懐だけにすることがなかったと言われる。

(八)蛍の道は恋の道

 〜物おもへば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る〜
王朝第一の女流歌人、和泉式部が男に忘れられた時、貴船神社の神に捧げた歌。
そこに飛んでいる蛍は自分の身から離れた一つの魂だと言う。
神のお返事は
〜おく山にたぎりておつるたぎつ瀬の魂ちるばかりものなおもひそ〜。
式部を京の女だけには括れない。
しかし聖なる空間における巫女(みこ)的もの、
そういうものが京の女にはあることは確かである。

(九)あほなことせんとおきやす

  あほなこと、それは出しゃばりなこと、多弁なことをさす。
人前に出ることは嫌うし、はっきり言ってそういう人には後ろ指をさす。
これは現代かしましい女権の問題などとは関わりがない。
出ないで動かすのだ。
そういうところが京女にはある。
掟を忘れてつい動くと何処からか女の声で聞こえてくる
「あほなことせんとおきやす」。
すると、ところてんの様にことが運ぶ。おおきにご先祖さん。

(十)ろうそくに燃える女心

  夏の夜の納涼話といえば怪談。
でも京都には不思議と四谷怪談といったものはない。
しかし「黒髪のむすぼほれたる思いをば、とけて寝た夜の枕こそ」と、
思いは同じ中京の女は裏切った良人を怨んで、
夜な夜な糺の森から深泥か池を経て貴船へ通った。
頭に鉄輪(かなわ)を嵌め、そこにはろうそくが燃えていた。
口数少なに控えめに良人を立てていた京の女の苦しさだつた。

(11)おきばりやす!

奥山はつ子、本名奥山初は明治、大正、昭和の三代にわたって
磨きぬかれた京女として生きた。
はつ子は数え年十三歳で舞子になった。
(註、はつ子曰く、祇園町では舞妓やのうて舞子、芸妓も芸子いわんといかんのどっせ)
普通は十歳、 身体が弱かったはつ子は遅れたことに持ち前の負けん気の拍車をかけた。
京大内科の松尾部長(俳人いはほ)は
〜初髪やはつ子はつ子とうたはれて〜と詠む。
妓籍の女だけではない、京の女はよう気張る。

(12)たからものは

 北山時雨が過ぎる嵯峨野、嵐山電車の窓に竹の葉がざわざわと擦れる。
祇王、滝口の庵所、定めなく訪れる者にも「どうぞ、お上がりを」とかかる声がうれしい。
秋から冬にかけての嵯峨野はこの世のたからもの、
祇王、祇女、仏御前、横笛、それから小督はみな京女、
古来、女の果て所とさえいわれていた嵯峨野に果てた。
京女のたからもの、それはそんな、心を染めて落ちない紅葉の色でもあった。

(13)霜月の風に送られて

「徳川へ参るくらいなら、尼になります」
といって 固辞した皇女和宮の東下の行列は
十月二十日(1861)京都を進発、
江戸へ着いたのは十一月十五日、大奥に入ったのは十二月十一日。
夫、家茂は五年後死去、翌年には有栖川の宮率いる征討軍が江戸城に入った。
この若宮は和宮の昔の恋人、ご対面の機会があったか、無かったか、
その記述は何一つ無いという。
皇女も京の風に育てられた女に違いはなかった。

 


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