ボタンをクリック↓
京の山 京の川 京の道

京の山

(一)湖底の風土

 京都はかっては断層によって陥没した湖底であった。
或る時は大阪湾に続く江湾であった。
この太古の湖は、北から東にかけての山から
緩やかに運ばれた土砂と軽微な地層の隆起によって京都盆地となった。
周辺の山々、特に東山三十六峰の趣きの深さも納得がゆく。
従って京都は今も深層からの涌水で極めて湿潤、
冬の底冷え夏の蒸し暑さ、それに対照する春と秋の季節の美しさもそこに原因し、
山紫水明の言葉の生まれる所以ともなった。

(二) 東山三十六峰第一峰 比叡山、下山せぬ僧も・・・

登り道はドライブウェイのみではない、
大津から向かう道もあるが、京都の子供なら一度は登った赤山禅院からのきらら坂、
その名はきらきら光るの意、
京都御所の勅使が延暦寺へ向かった道で勅使坂とも呼ばれ、
僧徒が走って都へなだれ込んだ道でもあった。
伝教大師・最澄は十九歳で入山、その廟所(びょうしょ)浄土院には十年、
山を下りない僧もいる。
三塔十六谷があるこの山は懐の深い山、
回峰地獄の行者が歩く山であることを忘れたくない。

(三) 如意ヶ岳は大文字山だけど

名の由来は平安時代、
山の上に如意寺という大津三井寺の末寺が創建されたことによる。
鹿ケ谷から東の談合谷は俊寛僧都の旧跡、
後白河法王らにより平家を滅亡の密議が交わされたところ。
大文字山とも言うが火はその西、つまり前面の山の火床にともる。
われわれは子供の頃から一年中大の字を見て過ごした。
当然の事に火がともるのは夏、
しかしよくよく見ると大文字の火床の向こうに重なって山があると感じてきた。
実はそれが如意ヶ岳ではある。

(四) 神楽岡は吉田山、吉田野の山であった

 京都の人間でも吉田山と神楽岡は別なんて思っている人がある。
吉田山は京大の東、神楽岡は南へつづく町だとも。
形からいえばまさにその通りだが、
白川通りが谷になって東山から離れているという地形も面白く、
ちなみに谷であったところには昔、
蕎麦の花が一面に咲いていたとは誰も信じない。
証明に蕪村の句「黒谷の隣は白し蕎麦の花」があげられる。
黒谷は神楽岡に続く地名。その一帯の野の中の山であったか。
吉田山の呼び名が高いのは旧三高の寮歌による。
しかし平安の庶民歌謡集『梁塵秘抄』には
「吉田野の神楽岡」と見えるからにその呼び名の歴史はさらに古く高い。

(五) 粟田山 鐘は知恩院、聖護院

 東山三十六峰は三条通りで分断される。
その南に続くのが粟田山。
登山口に粟田神社の石柱がある。
ここは八坂神社の分かれの祇園感神院新社。 祇園祭が中止の時、代行をした。
山麓の蹴上浄水場には与謝野鉄幹、山川登美子、鳳晶子(後の与謝野晶子)の
三人が 泊まった辻野旅館跡がある。
「ひとまおきてをりをりもれし君が息その夜しら梅だくと夢みし」
「お目覚めの鐘は知恩院聖護院いでて見たまえ紫の水」
あとの歌は碑に刻まれて当所に建つ。

(六) 華頂山 円山の南、知恩院さんのお山

 花鳥山、花頂山とも書かれるように、花鳥風月に富む山。
春は桜、初夏は新緑、秋はまたその風情に優れ、
市中から望むとまるで都をどりの背景のよう。
四条河原からは、ちょうど正面、東山三十六峰のまん中の位置になる。
山へ入るには、除夜の鐘で名高い知恩院の大梵鐘の東側から。
眺めとは別に厳しい原生林を行くと「蛍の窟(いわや)」、
ここは法然上人と中国の善導大師が霊的交信をしたところ。
平安京造営に際し作った頂上の将軍塚は京都に異変があるとき、鳴動をするという。

(七) 北山  材木の供給元として

 京都市の北部を囲む山地。
主として標高七百から九百メートルの隆起をもつなだらかな山容。
峠の山間から眺める京都の姿は美しい。
この峠道は日本海方面〈丹後・若狭〉に通じる道として古くから開けた。
北西部の山林は台杉、磨き丸太の生産地。
丹波山地の材木もふくめ、山中に発した清滝川を通じ都へ大量の材木が運ばれていた。
平安京の度重なる大洪水、疫病発生の主因はそこにあった。
十四世紀末、北山殿としての金閣も造られている。

(八) 北山(その二) 東から西へ尾根から谷へ

 北山、西山といってもその名の山があるわけではない。
京都は三方を山に囲まれた町、その三方の山並み地域の呼び名をいう。
東山は三十六峰と名高いが北、西の区切りは明瞭ではない。
しかし北山は若狭街道に東の境を置くとすると、
花背、鞍馬、貴船、雲が畑、杉坂、中川に至って周山街道までを目安とする。
主な山々のうち舟山、左大文字山にはお盆の送り火がともされる。
雲が畑の俗称愛宕山では八月二十四日の夜、
素朴な火の祭典、松上げが行われる。

(九) 愛宕山    光秀の運命の岐れ路とも

 愛宕山は京都を取り囲む連山の中で一番高い山、標高924メートル。
山頂には火伏せの神、「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り」
と歌われて信仰をあつめている愛宕神社がある。
天正10年明智光秀は心中の決意、
信長への謀反を愛宕権現に問い、神籤をひいたが凶と出た。
今一度、凶、また一度凶、三度の凶を見た光秀の顔には、
さすがに深い憂いの影が走ったという。
宿坊に設けられた連歌の席での光秀の句
「時は今天が下しる五月かな」は有名。
愛宕の夕照が真向かいの比叡に映える、
特にこれから秋深まるころの景色は京都には珍しく雄大なものといえる。

(十) 松尾山  平安京遷都以前の足跡が

 京都は東、北、西と三方を山に囲まれた町。
東、北に比べて西方向はやや町の中心から遠い、
それ故に未だに無垢であり大気は冴え冴えとかぐわしい。
北山から西山に回る位置の松尾山は松尾大社背後の標高二二三メートルの山、
山懐に抱きこまれたような大社は、日本第一の酒造の神、
七つの谷の一つ大杉谷の滝水は酒造家が尊ぶ霊水。
なお大社の二柱の祭神のうちオオヤマクイノカミは山城の国を開拓した神、
付近に点在する円墳群は古墳時代後期のもの。

(十一) 松尾山(2)〜延朗寺山 純に美しく

 松尾山の常盤木の濃みどりに濡れるように囲まれて建つ松尾神社の、
 いま一柱の神はイチキシマヒメノミコト、狭霧の中から生まれたあえかな女神。
 神泉「亀の井」からは、山清水が青銅の亀の口を通して流れ出てている。
 南へ五百メートル、山裾の平地に、
 手のひらに乗りそうな小さな拝殿の社は月読神社。
 創建は古い。
 さらに山裾を南へ延朗寺山の麓に、延朗上人の木造を安置した堂、延朗堂がある。
 上人は八幡太郎義家の曾孫。西山は純な美しさを保っている。

(十二) 葉室山 竹の枯葉を踏みしめ辿る昔日の面影

 葉室山は延朗寺山の南方。ここには延朗寺山の谷ヶ堂に祀られる延朗上人の弟子、
勝月が師の廟所の意味で建てた俗に峰ヶ堂と呼ぶ花山寺があった。
鎌倉期まで栄えたが、南北朝、室町期に入ってからは度々の兵火にかかり廃滅。
しかしながら、竹の枯葉が散り敷く道をたどり、往時に思い巡らす旅もよかろう。
この付近に点在する諸寺には、両堂の遺仏と伝える仏像が分散所蔵されている。
なお東の山麓の谷の地蔵と呼ぶ地蔵院は吉野時代の創建である。

京の川

(一) 水がつくる文明

  山紫水明は自然の遺産への賛辞であった。
初めに盆地の中央を、高野川の前身が東北から西南にかけて走った。
加茂川の前身は北山から真南に奔流。
二つの川はやがて桂川に合流した。
壮大な古代を想像するとき、それら水辺に生まれた文明が自ずから、
現代に至るルーツが見えてくる。
頼山陽は加茂川畔の寓居を「山紫水明処」と名づけた。
湖底から浮かび上がった都、
それはまさやかに水が作り上げた文明によつて育てられた筈ではあった。

(二) 加茂川  変わらぬ男、女を映して

この川は1、賀茂川、2、加茂川、3、鴨川の三様の字で書かれる。
京都の人間はおおよそ1を出町まで、2を三条までその下流を3の名で呼び慣わしてきた。
流れもさることながら河原は古くから多くの人が集う場所、
建武の時代の河原の落書(らくしょ)にも見られる庶民の声を聞く場所でもあったが、
今も三条、四条の橋に立って眺めると時代は変わっても人の生き様は変わらぬことがわかる。
そこには現代の阿国(おくに)がいる、お染・半九郎がいるからだ。

(三) 堀川は歴史に友禅に彩られ

堀川は加茂川の本流であった。
平安京造営の都合で今出川の出町柳で高野川に加茂川を合流させ、
堀川を運河として開いたのは桓武天皇。
堀川にかかる名橋、戻り橋は名の如く「行くは帰るの道なり」と言われ
死人が蘇る話は喜んても、婚礼の時は通らない。
陰陽師安倍晴明はこの橋の下に職神を隠し駆使。
なお、この沿線に日本最初の電車が走ったことも歴史の一齣。
昭和の初期は友禅洗いでいつも紫に、紅色にと染まっていた川でもあった。

(四) 白川の水音はやはり恋しきものに

「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕のしたを水の流るる」
吉井勇の歌を思い出す川ながら、その源は歴史もともに
「かにかくに」(あのように、このように、いろいろと)と 長く物語らすものがある。
京都が比叡山から生まれた、そう思わせる感慨を私たちは持っている。
母なる山であろうか。
白川はその比叡山の山麓に源流を持つ。
流れの進むところ、北白川は京都における原始生活のあけぼのの地とはなった。
縄文文化の早期にあたる遺跡も多数発見されている。
その水音を勇は祇園に聞く。祇園はまた人知れず今日の京都を育てた。
流れ出るところが母なら、水脈もまた母のように思えて。

(五) 疏水 命の水として、水路として

その計画は平安末期に芽生えていた。
それは単に水を通すだけでなく明確な目的は通船計画にあった。
七世紀にわたる宿願に狼煙が上がったのは東京遷都。
われわれの先祖は「天皇さんはちょっと東京にいかはっただけ」と譲らなかったが、
都の衰微が心配だった。
その気持ちの挽回が疏水工事の着工となった。
古いようでわれわれはこれだと思った新しいものにはしっかりと飛びつく。
琵琶湖からいただく静かな青い流れは京都人の命の水となった。

(六) 菊渓川 轟川 音羽川 東山山麓、地上から消えた名流

八坂神社の正門、石の鳥居から南を下河原と呼ぶが
一帯はその名のごとく河原であった。
華頂山から五つ南の峰、
高台寺山から流れ出る菊渓川と
清水音羽山からの轟川が合流した一面の河原であったのだ、
そこには秀吉の妻、北の政所が慰みのために集めた女たちの住まいがあったとか。
なお、音羽山から出て五条通りに昭和の中期まで姿を見せていた
音羽川の水質は清澄、
お歯黒蜻蛉が飛び交う光景が懐かしいと、付近の人は今もつぶやく。
京都はまさに水の都でもあったはず。

(七) 堀川  歴史に照りかげる水

堀川は運河である。
堀川運河を開かせたのは桓武天皇であった。
天皇は都の造営に際し、 加茂川の水路を東南方向に変えさせ、
その水路跡に浅い運河を造らせた。
これは、北山の豊富な木材資源を大内裏造営のため運搬させようとするものであった。
堀川にかかる名橋に戻り橋がある。
渡辺網の鬼伝説もさることながら、その名の由来、
この橋をわたると死人がもどること、
さらに現在に知られる天文博士安倍晴明が一種の精霊をかくしていたのはこの橋。

(八) 雲が畑川   惟喬伝説の地を流れて

雲が畑川は加茂川の源流、一名を小野川ともいい水源は桟敷が岳である。
一帯は悲劇の皇子、木地師の祖ともいう惟喬親王に関する伝説が多い。
桟敷の名は親王が山上に楼を構えて都を恋しく眺められたことによる。
清流に近い惟喬神社にはこのあたりで息絶えた親王寵愛の雌鳥が祀られている。
流れは山谷の清水を集め東南流して上加茂に出て、
加茂川となる。その水は御所の御用水として清澄が守られ、
弔いなどは一山越えた地点で行われたものであった。

(九) 保津川  舟子は舟を渚に寄せて客を待つ

保津川は丹波平野の水を集めて、嵯峨の峡谷を縫い嵐山にかかると
大堰川さらに桂川となり、やがて淀川に注ぐ流れである。
初めて船が通うようになったのは、高瀬川を掘った角倉了以の慶長11年の改修による。
もっぱら生活必需のものの便を計るためであったが、今は遊興専門のコース。
夏目漱石の『虞美人草』の第五章、甲野さんと宗近君とが明治40年、
嵯峨から山陰線に乗り亀岡に出て下った保津川下り、あのコースである。
船の形は同じだが「赤い毛布に煙草盆を転がして〜」というのどかさは望めない。
両岸にゆるやかに迫る山々岩石の風情は漱石の目に映った趣と同じといいたい。

(十)桂川 延暦年間に渡し守が

京都の中心地から西山に行き着くためにはかならず一度、桂川を渡らなければならない。
丹波山中から保津峡に入り大堰川となり、
西山の裾を大きく回って大山崎付近で宇治川、木津川と合流し
淀川と名を変え悠々と大阪湾に入る川である。
松尾山の前面、嵯峨から梅津、桂の川岸を辿ってみると材木商の多いのに気づく。
桂川は材木運搬の川でもあった。それは平安朝建設の時代に始まる。
南流するに従って景観は散漫になるが、
西山の最北端のあたりは愛宕山、渡月橋も遠望され美しい。

(十一)西芳寺川   小流れ沿いに苔をもとめて

嵐山の西方、烏ヶ岳に発し南東流して桂川に合流する川、松尾谷ともいう。
 ちよっと昔はこんな小流れが市中にもたくさんあった。木橋の手前に鈴虫寺。
 その渓流に沿って苔寺(西芳寺)。
 足利義満、義政も来遊してその林泉を賞したというが、
 義政は東山銀閣を営むに当たりそこに範をもとめたのであった。
 川沿いの土手に苔がはみ出していたりするのは如何にもその名にふさわしい。
 枯れどきの渋い色どりの苔の上に散り紅葉や白雪が見られるのもいい。

(十二)山田の井 人知れずこそ訊ねてみたい

西山の裾を流れる桂川は前に述べたが、京有数の大河として再び掲載する準備はある。
その前に西山に残す清泉のあとを辿っておきたい。
山田の井は葉室山麓、現在の右京区松尾井戸町にあり、
葉室と呼ばれる山田郷の発祥の元となったもの。
四時涸れることが無かったが現在は多聞にもれず湧出は少ない。
清水の社址は同所といわれるが、山田の名水を神格化したもの。
勾配ゆるやかな山道を歩いていると、「古井戸あり」などと書き記した
草に埋もれた木切れなどを見つたものであった。

京の道

(一) 平安京の成立

 平安京は北方に大内裏、その南面の中央の門が朱雀門、
そこから真っ直ぐに都の入り口、羅城門までの大路が朱雀大路。
大路をはさんで平安京には二つの京、左京、右京があった。
両京はそれぞれに区画され、これが京都を直交型、
つまり碁盤の目に分ける根幹となる。
現在まで使われる上がる下がるの指示法は応仁の乱後、 秀吉以来。
京都を歩くとき、ちよつと立ち止まって見て欲しい、
必ず道のどちらにも山が見える、見えない方角が南である。

(二) 河原町通り 時代に沿い急速に発展

名のとおり、河原であった所、西側には秀吉築造のお土居が走っていた。
当然その東は加茂川であったのだ。
開発のきっかけは、慶長末年の高瀬川の完成による。
現在は葵橋東詰から南は十条に至る。
二条通りから南は高瀬川の築造者角倉了以にちなみ角倉通りと称されたこともある。
明治期まで藩邸が多く、京都ホテルは長州藩邸、ロイヤルホテルは対馬藩邸であった。
なお北部には紫式部の堤第、南部には源融の河原院をも包み込んでいる。

(三) 三条通りは京都の通り庭

平安京の三条大路。
東は都ホテル前の蹴上から、三条大橋を経て西は西土居通りの東まで。
さらに西へ嵐山の渡月端までも三条通りと呼ぶ。
三条大橋を京都の玄関とすれば一筋に奥へ通る町屋の通り庭でもある。
橋の袂の五色豆屋は昔の姿の京土産屋、
行き交う人の中にふと「東海道五十三次膝栗毛」のまぼろしを見るのもこのあたり。
池田屋騒動の碑は河原町までの北側に。
昔の河原は寺町あたりまで広がっていた。
三条通りは土手であったのだ。

(四) 山中越え、志賀越えとも呼んで

 荒神口を起点に吉田、北白川をへて滋賀県坂本に至る道。
京都の小学生の格好の遠足道であったが今は車にその静寂はかき消された。
比叡山ドライブウエイという方が分かりやすい。
しかしわたしたちは今も志賀越えの名に呼ぶ親しみを忘れない。
それは京都と滋賀の切るに切れないつながりを表わすもの、
四条室町あたりの商人の出世頭はいわゆる近江商人である事は確か。
現在今出川と交差する地点にある大きな仏さんは旅人の安全を守るためのもの。
一里をへだてた山中町にもある。
滋賀県側にはさらに大きな仏さんがおいでだ。
京都での戦いに敗れた兵も走った道。

(五) 三条街道 東海道の一部として

 三条通りといえば大方は三条大橋から西を思ってしまうが、
街道といえば東へ粟田口から日ノ岡を越え、四ノ宮、山科を経て大津へ向う道のこと。
この道は見え隠れに琵琶湖疏水に沿う。
疏水完成以前は琵琶湖水運で大津に着いた物資を京へ運んだ要路。
粟田山麓、日ノ岡峠の難所には花崗岩の板石に轍(わだち)をうがった
車石(今のレール)を設置、現在記念碑とし残る。
なお源氏・伊勢・栄花の物語、更級、十六夜の日記にはしばしば登場する道。

(六) 大和大路 北は三条から南は三十三間堂を越えて

 大和大路は三条大橋の東にはじまり、
鴨川の東岸沿いに伏見から奈良までを結んだためにその名がある。
三条と四条の間を、縄手通りと名づけたのは、
その間が特に土手、 すなわち畷(なわて)、細い縄のような道であったから。
現在の賑わいからは想像もつかないことだ。
三条京阪のあたりを五軒町というのは、
江戸時代、五軒しか家がなかったから。
途中、建仁寺には新しい双龍の天井画の気迫が。
方広寺大仏殿周辺には「棟梁」の名のつく町が多い。
それは大仏殿造営にちなむ。

(七) 堀川通り  栄枯盛衰そのままに

 平安京の堀川小路、北は上加茂から南は八条まで。
堀川開創のゆかりから材木商人が集まったが、
近世以降は西陣を控えた環境もあり友禅染めの染色業者の形成する町ともなり、
近年までは道沿いの水は藍色や紅色に染まっていた。
町の好不況はその色具合でわかった。
この通りを代表する建物に二条城、西本願寺、
伝説地としては歌謡「草紙洗い」で知られる井戸が一条通り東にある。
道路の拡幅は第二次大戦時の強制疎開によるもの。

(八) 周山街道  康成の『古都』を思い出す

 一条通りの延長線上にあるその道は、
仁和寺から御室川をさかのぼり、高尾を過ぎ、
さらに清滝川の谷を北上する京都から丹波に抜ける道の一つ。
さらなる延長は福井県小浜に通う。
幾つかある丹波道と区別するため一条街道の名もあった。
途中、中川あたりでは北山杉の林が続く。
ここまで来ると、川端康成の『古都』を思い出す。
千恵子は大文字のあくる日の午後、苗子をたずねた。
二人の娘のいる杉林の中は急に暗くなり激しい雷鳴が襲った。
苗子は千重子の体を包み込むようにしてかばう。

(九) 千代の古道  千代の古道 跡はありけり

 千代の古道は平安時代から、幾多の歌に詠まれてきた。
具体的な道をさすものではないという説もある。
しかしながら、江戸時代の案内書には嵯峨の広沢の池に出る道と紹介されている。
数本あるその道を今の地図にあてると、
1.京福電鉄嵐山線の有栖川駅から北へとる道
2.同じく常盤駅から西北に向かう道
3.同じく北野線鳴滝駅から北、音戸山沿いに池の東岸に出る道となる。
大宮人たちはこれら千代の古道を通り、観月の名所、広沢の池に出、
池畔の遍照寺も訪れたであろうか。
現在は3のルートが指定され、その道沿いに道標も見られる。
刻まれた古歌に酔って歩くのも京の道ならではのもの。

(十) 四条通り  全長七キロ余、東山から西山まで

 四条通りは東大路の八坂神社の朱塗りの楼門から始まって真っ直ぐに西進、
右京区梅津中村町の臨済宗南禅寺派長福寺の西で終わる、
その後、桂川を渡った松尾大社までは嵐山祇園線だなどと役所はいうが、
京都の者はそんなややこしい事は知らず、
誰もが四条通りは東山を背にする祇園さんから西山を背にする松尾大社までと思い込んでいる。
東から西へ長い様々な顔を持つ通りである。
祇園界隈はご存知、花街、烏丸まで来ると銀行街、
祇園祭の鉾はここから出発。西院は賽の河原であった。

(十一) 唐櫃(からと)越え まぼろしを手探りに

西山、西京区山田から亀岡市山本に向かい、
 山陰道の北側の稜線をたどる山中の道。からひつ越えともいう。
 全長約六キロ、老坂(おいのさか)越えの間道。
 中世、明徳の乱の山名氏の軍勢二千余騎などが丹波、
 山城間の軍道とし利用したことでも知られている。
 西山は派手に飛び歩く観光地ではなさそうである。
 唐櫃越え、その名のもたらす静謐さにひかれて、
 まぼろしの道を手探りするのも京の道。
 刺激に疲れた心を癒しにいくところかも知れない。

(十二) 唐櫃越え(2) 敵は本能寺にあり

 光秀は現在の国道9号線老ノ坂峠道をわざと避けて、
唐櫃越えの間道を葉室へ抜けて、
一気に上桂へ出、桂川を渉り、そのまま本能寺へ駆け込んだという。
途中、不安にかられる兵卒たち、
「敵は本能寺にあり」と光秀が胸の内をあきらかにしたのは、
桂川の波の光が見えてからであったという。
老ノ坂は神出鬼没の酒呑童子で恐れられた大枝山のオオエが変化した名前。
童子は多くの手下を持っていたというが、源頼光らにより退治され、
その首塚が国道トンネル近くの山中にある。

 


←もどる