第24回 今と昔の境目はどのあたりに〜
第23回 上木屋町今昔
第22回 むかしもいまもかわらぬものは
第21回 いけず、今昔、京都通
第20回 京都駅今昔
第19回 このごろ、河原に思うこと
第18回 大原今昔
第17回 花見小路、いまむかし、これから
第16回 さくらと百日紅
第15回 今様「錦」艶模様
第14回 石段下から高台寺、その女たち
第13回 京都のお正月
第12回 一昔前のお風呂屋さん、人情話
第11回 石器時代の主食「くだもの」から京菓子へ
第10回 京都と歌人吉井勇
第9回 懐中ぜんざいとは
第8回 ゆかた(浴衣)は、ゆかたびら(湯帷子)
第7回 町家の暮らし・京都の暮らし
第6回 京の文化と炭と灰
第5回 碑は語り部だから
第4回 京都・そのひびき、そのGAKU
第3回 比叡を歩く、谷道、峰道をたずねて
第2回 戊辰の京都を見る
第1回 祇園さんのおけら詣り

今と昔の境目はどのあたりに〜〜

 あっという間に、今年も師走になりました。ほんまに早いもんでございます。
 今年の南座、年末恒例の顔見世では、2代目中村鴈治郎さんの四代目坂田藤十郎披露興行が行われています。元禄時代に近松門左衛門と提携し、一世を風靡した初代以来、二百九十六年ぶり、三代目から勘定しても二百三十一年ぶりにて上方歌舞伎の大名跡が復活することになったのです。

 初代藤十郎は京都の芝居小屋に生まれて、小さいときから役者をしていたと伝えられています。人気が高まったのは大阪で演じた「夕霧名残の正月」、これは、大阪新町の名妓、夕霧と藤屋伊左衛門の狂言、夕霧の死を題材にした和事で、夕霧狂言ともいわれ大当たりをとりました。延宝六年(一六七八)のことです。その後も「けいせい仏の原」など、近松門左衛門の作品で持ち前の本領を発揮したのでしたが、それら演目は、四代藤十郎も勝るとも劣らぬ役柄の出番とは思われてなりません。

 四代藤十郎は祗園を「ふるさと」と自身が書くエッセイで語っています。父、鴈治郎はその妻と昔、下木屋町、高瀬川の西岸近くに棲んでいました。扇雀の名さえいまだの四代藤十郎も一緒でありました。実はその時代、わたしは上木屋町に棲んでおり、三条通り一つをへだててよく、その家族に出合ったものでした。またその頃はどこの家にも湯殿はなく、誰もが銭湯に通っていたものですが、五、六歳の藤十郎は、お母さんと銭湯の女湯に浸かっていました。わたしも同じくらいの歳の女の子であったのですが同じ銭湯に浸かっていました。藤十郎はお母さん似です、確かに、父、鴈治郎に所作のすべては似ておりますが、その目、口元、は全く祗園育ちのお母さんそのものの美しさ、いま舞台で見ましても、わたしはお母さんを思ってしまうのです。姉の玉緒さんも目はそっくり、女の子の「市松(いちま)さん」そのまま、お二人を折々に舞台、テレビに見つつ、わたしが思い出すのは、その木屋町の銭湯時代のお母さんの見目ばかりです。銭湯へ来ていた今藤十郎は、絣の着物にお対の羽織を重ねており、全く男の子の「いちまさん」の見本のようでした。お手伝いが冷たいお番茶を運んで来ていたりしたものでした。

 先ほど、初代藤十郎に勝るとも劣らぬ役柄の出番とは思われてならないと申しましたが、鴈治郎の頃からの和事のせつなさを思い見るとき、お母さんのおもかげとも重なって、わたしにはその役柄の深みに、ますますの和事の真髄への入れ込みを思ってしまうのでした。


上木屋町今昔

 木屋町とは、加茂川と高瀬川にはさまれて二条から南へつづく町通りの名称である。わたしは上木屋町で生まれた。上木屋町とは、二条から三条までをいう。三条から南は、下木屋町といった。いづれにしても、近年の京都で木屋町ほど急速に変わってしまった町もない。「保存」という言葉から完全に忘れ去られた。奈良本辰也は昭和57年発行の『京都歳時記』に、京都大学時代の思い出として、酒徒の集合場所だった裏寺町で飲み、議論し、「酔歩まんさくとして、四条の通りに出ると、私たちは東のほうに向ってすすむ。そして四条小橋のところで立ちどまると、そこに高瀬川が流れており、柳が暗い影を落としているのに誘われて、ついそこを北にのぼって吉田山の麓の下宿までたどりつくのだった。そのころ木屋町筋は、軒の低い家々が頑丈な格子造りを街路に向けて、電灯の光も少なく、ひっそりと眠っていたものである。」と書いている。「頑丈な格子造り」とは、味噌・醤油屋、炭屋であったろうか、「そのころの木屋町筋」にわたしは住んでいた。七、八歳のころ。二階の蟲子窓から、下を通る放歌、バンカラの学生さんらを覗き見していたものだ。

 木屋町に料理屋は一軒もなかった。高瀬舟を利用した名残の漬物・味噌・醤油屋、薪炭屋などの間に軒を連ねていたのは席貸屋。席貸屋とは字のごとくに席を貸し、辻留、瓢亭など一流仕出屋に出張を依頼し、熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに、その遅さ速さも見計らい、お席の頃合を充分に、おもんばかって、料理人さんに連絡、こころを合わせてすべてを調える。一切を取り仕切る女あるじには、お茶事の亭主に等しい心使いと礼儀が必要であった。顧客と女あるじの間には、長年月にわたる信頼関係があつく、相互の繁栄を助けるのが仕来りであり心得ではあった。木屋町、特に上木屋町の席貸屋がそういう風格を保っていたのは、昭和二十年代までではなかったか。その時代を境目に廃業、持ち主が変わり、料理屋などに姿を変え、次第に各種遊興の場が増えていったのであった。席貸屋の顧客にあがった名には、明治、大正、昭和の屈指の実業家、田中源太郎、渋沢栄一、石川芳次郎がある。ちなみに小学校同級生の生家だった席貸屋玉川楼の、現在の家には、「三十六峰一眸中(さんじゅうろっぽういちぼうのうち)」の渋沢栄一の扁額が残る。なお木屋町は、その眺めを賞でて、三井八郎衛門、近江商人外村与左衛門の屋敷もあった。

 高瀬川は二条を南へ下がったところの東側、阿部という屋敷の塀の南端の下をくぐって流れ出ていた。流れ口には鉄柵がはまっていた。鉄柵には青い藻がかかり流れにしたがって、揺れていた。男の子たちは鉄柵に網を差し入れて、流れてくる魚を待っていた。かたわらに柳の木が一本立っていた。水面すれすれに、おはぐろ蜻蛉が飛び交っていた。高瀬川は人工の川、舟を通すため、底が平坦、何時見ても同じ起伏の波が流れている、それは、いまも同じだが、昔の月夜の波はまるで、銀箔がおだやかに上下して流れるようではあった。いまは夜も明るくて、そんな景色に目がいかないようだ。木屋町はかわった。近ごろ、木屋町へいっても、行き場を失ったわたしは、高瀬川の岸の石積みに降りて、てのひらに水をすくう。水の匂いには、何故かかわらぬものがこもっている。道行く人が変な顔をして見ていった。


むかしもいまもかわらぬものは

 むかしもいまもかわらぬものは、ひと、そのものでございます。機会があって、大覚寺で地唄舞「葵の上」を見ました。この舞はいうまでもなく、『源氏物語』に取材するものでございます、六条の御息所が昔の栄華にかわり、源氏の愛情を葵の上にうばわれた悲しみ、狂おしいまでの恨み、嫉妬を高潮させ典雅でありながら、まこと激しく炎に身を焦がす、迫力ある舞でございます。
 
 舞台は、大覚寺の宸殿、この建物は後水尾天皇から下賜された寝殿造り、前庭には古式正しく、左近の桜、右近の橘が配され、襖絵は狩野山楽筆の「牡丹図」「紅白梅図」をはじめ金碧画が飾られています。まさしく、この御物語を再現するにふさわしいところでございました。現実の世には地球温暖化の波が予想以上の迫力でさし迫り、わたくしどもの身のめぐりのあらゆる生物にその異様さが、神の怒りのごとく、驚くばかりに提示されつつある昨今、ひとときを、千年まえの場にわが身を置いたわけでございました。
 
 時刻は神無月午後7時半、「げに、世にありし いにしえは 雲上の花の宴 春のあしたの 御遊に馴れ 仙洞の紅葉の秋の夜は月に戯れ色香にそみ 華やかなりし身なれども〜〜恨めしの心やあら恨めしいの心や 人の恨みの 深くして 憂寝に泣かせ給ふとも 生きてこの世にましまさば 水暗き 沢辺の蛍の影よりも 光る君とぞ契らん」と底ごもる地唄がいんいんと響きます。参集の人ら、思わずその身になって、場内は静まり返っておりました。さる大学の企画ゆえ、お若い方々も多うございました。同じように、静まり返っておいででした。源氏の女のひとりひとりは姿、在り様を変えても、ほら、ここに、そこにおいでのはずでございます。さまざまな世情から、変わらぬはずの「ひと」そのものまでが見失われようとしている危機感がつのるこのごろではございます。
 
 しかしながら、ふと、こころ覚めて、帰る道すがらに仰ぐ夜空は、夜といいますのに、ほのかな明りが消えうせぬようにさえ見えました。むかしもいまもかわらぬものは、ひと、そのものでございます。わたしたちは、なにも失われてはいない、その夜、御ものがたりに教えられたことではございました。あつかましいことではございますが、京都に生まれ育ちました喜びを直(じか)に感じたことではございました。


いけず、今昔、京都通

 京都に生まれ、京都に育ったからといえ、京都の何もかもを知っているわけではない。そうあることが自然と思うが、京都検定なるものがあったりして驚く。申し訳ないが、多分わたしは半分の点もとれまい。それが自然と思う自分ではある。先般、ある会合で余興に京都のメンタルテストみたいなものがあって、知らないことの多いわたしは、冷たい横目で見られたりした。京都の人間にとって京都は生活の場、一町四方くらいの中で細やかに、かえって濃密に風習に従い、その場を誇りとして暮らしていることは、かえって、京都通にはわからぬことらしい。それがつい50年くらい前までのつつましい京都の人間であった。或いは知っていても、さあ知りまへんえ、などといってしまっているのかも知れない。いいたくない時だってある。

 たとえば、七口というものがある。三条口、東寺口、丹波口、長坂口、鞍馬口、大原口、五条橋口など、他にもあるが、とにかく七つのその地名は成長するにしたがって知る数が増えてはいった。しかしながら皆につく「口」をなんの不思議にもせず、単なる地名としか考えていなかった。これはほんとうに知らなかった。

 さてその今昔の話ではあるが、そこで、あらためて七口の勉強をしてみた。東寺口は21日の弘法さんで何度か行ったから知っている。思えば口でなく都の正面玄関ではないか。丹波口は七条にあるから七条口ともいう。丹波、丹後への出入り口。長坂口は北丹波口とも、京見峠には幼い頃、あれが都の灯だと母親にいわれて、発奮勉強した京大総長さんの昔話が残る。三条口はわが家の近くだった。東海道の終着、野次さん喜多さんの話は幾度、祖母から聞かされたか。五条橋口は竹田口ともいい伏見から宇治、奈良へも通い、また来る。鞍馬口は深泥が池から鞍馬、貴船、北丹波へ。謡曲「鉄輪」の女が通った道という方がわかりやすいが。大原口は近江路、若狭路へ至り、また来る。その道は鯖街道ともいった。道端の平八茶屋のとろろご飯は、壬生のかんでんでん(狂言)にも通う。思えば自然なこととして心得ていたようではある。一つの話は縦にも横にも通い、そのつづれ錦は果てしがない。京都のことは、わたしどもはテストをしてもらったら、さっぱり駄目、わからない。その糸繰り、糸の繰り方しかわからないのが50年前の京都通。


京都駅今昔

 JR(旧国鉄)は、明治5年10月14日、まず新橋、横浜間が開通した。ついで、7年5月11日、神戸、大阪間が開通。つづいて大阪、京都間へと延びた線路は明治9年7月に向日町まで。京都の大宮まで来たのは9月、同月5日には大宮通りに仮停車場を設置して一般運輸を開始。これは京都停車場とあるのみで確かな記録はないそうだが、現在の京都駅の西、梅逕中学の北あたりという。後、七条に、われらの先祖が通称「七条ステーション」あるいは「七条ステンション」と呼んでいた瀟洒な様式建築、赤レンガ造り、二階建て、振り子時計のつけられた初代「京都駅」が完成、開業したのは明治10年2月5日。

 二代目京都駅竣工は大正3年8月15日。場所は七条ステンションの南140メートルの現在の位置であった。総ヒノキ造り木造二階建て、外観はルネッサン式建築様式。塔には電気時計がはめられ、内部には豪華な天皇休憩室、車寄せ、一般休憩室は1・2・3・等と婦人室の四つ。全国ではじめての売店、理髪室が設けられた。三代目は食堂更衣室のアイロンのかけ忘れによる二代目の火事の後、昭和27年5月27日、直線を生かしたスマートな駅舎が竣工、蛍光灯が多用され、明るさを誇示した。七条郵便局の移転、京都タワーの完成とその後の、駅前の風景は大きく変化した。四代目、現代のわれわれが見ている駅舎は平安建都1200年記念事業として、構想から12年目、駅舎というより、駅ビルとして平成9年9月11日開業した。同年2月5日には京都駅開業120年記念行事が行われている。

 話は変わるが、夏目漱石に『京に着ける夕』という随筆がある。「汽車は流星の疾きに、二百里の春を貫いて、行くわれを七条のプラットフォームの上に振り落とす。余が踵の堅き叩きに薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉から火の粉をぱっと吐いて、暗い国へ轟と去った。」その書き出しはこうである。明治40年のことであった。漱石が振り落とされたのは初代の京都駅、七条ステンションのプラットフォームであった。


このごろ、河原に思うこと

 比叡山に雲が低くたれこめている。いましばらくは続くこの風景に、思い出すのは後白河さんのこと。この時期ではなかったか後白河さんが一番ご脳を悩ましたのは。意のままにならなかった筆頭、それは加茂川の氾濫であった。

 しかし河原は古くから人々の多くが寄り集まる場所でもあった。建武の頃の落書にもあるような民衆の声も聞かれるところでもあったが、同時に刑場として晒し首が行われたところでもあり、人々は一般の死体をもわざわざ河原に捨てに来た。後白河さんは悩んだであろうが、氾濫は、それらを洗い流す役目もした。河原はそれだけではなかった。中世においては、開放を願う人の住処とはなった。またともに、それは民衆芸術の温床となったことは忘れられない。われらの先祖はそこに喜びをもとめた。洪水の繰り返しの経過のなかにも民衆は強かったのである。

 最後の洪水をわたしは覚えている。昭和10年の今頃、夜を徹して雨が降っていた。警報など今のように徹底はしていなかったのであろう。翌朝、小学校2年生のわたしは、登校した。とすると、その時間はまだ加茂川は氾濫していなかったのであろう。小学校は加茂川沿いの銅駝小学校。何時間目からだったか覚えていないが窓から見える加茂川の濁流が校庭に流れ入って来た。奔流には牛がわらぶきの家が流れていた。今から思えばそれらは、上流の八瀬あたりからであった。

 その後、加茂川の護岸工事が何時まで続いていたろうか、第二次世界大戦中の長い中断もあった。ようやくに三条あたりまで来たのは、昭和20年ごろ。しかし景色が悪くなった。ヨーロッパあたりでは、もとの美しい流れを保たせながら洪水対策もたてられているとか。沿岸には魚も虫も充分に生息できる場所を残して。いまの河原には虫どころか民衆が集う充分な広さはない。人々は気づかないだろうが、つまり平らな河原の多くが失われたのである。いたずらに川底を掘って、断崖をつくった。建武の昔は知らないが、なぜか、そのころのことがなつかしい。ところで最後の洪水から今年で70年目、京都はうつくしく、やすらげる町になったのであろうか。やわらかな広がりを保っていた草地、河原の石ころと戯れる本当の河原は失われた。四条も三条もいたづらに白い石垣が目に立つ。後白河さんの時代から800年は過ぎたろうか。そのころの加茂川を、京都の空をふと思ってみる。


大原今昔

 「道すがら四方の梢の色々になると、御覧じ過ごさせ給ふ程に、山陰なればにや、日も既に暮れかかりぬ。野寺の鐘の入相(いりあい)の音すごく、分(わく)る草葉のしげみ、いとど御袖湿勝(ぬりまさり)、嵐烈しく木の葉乱りがはし。空かき曇り、いつしか打ち時雨つゝ、鹿の音かすか音して、虫の恨みもたえだえなり。とにかくに取り集めたる御心細さ、たとへやるべき方もなし」

 大原でバスを下りて、寂光院へ。歩く道々に、せめても『平家物語』の一節なりと思い出してもみようではないか。せめてもである。御年、二九歳の建礼門院はそのうら若き身を、大原の里、寂光院に埋め給うた。その道行きを思わずして、大原の道を歩くことはならぬとさへいいたい。
口ずさむものがあると、景色はかわる、今様の道を歩く心も慰められよう。

 大原は今も昔も不思議に人々の心を歴史に誘い込むのはどうしたことだろう。それが土地の真実、心、大原には深い心がある。一千年前のおもかげがあろうはずはなくても、耳をすませば、ささやきかける風のたよりはある。寂光院はもうそこ。

 これからは夏、準備をすれば、秋も冬も訪れられよう。雨の日も、雪の日ににもこそ。人の音せぬ時にこそ見えるものがあるとわたしは心得るのだが。


花見小路、いまむかし、これから

 花見小路、美しい名前の道です。
 わたしの家の古葛籠の中に、桐箱入り、ガラスに写した写真がいくつかあります。明治時代のものです。
 その一つ、桐箱のふたの裏に、筆で、「花見小路菊花展にて」と書きしるした写真があります。
 花見小路は、建仁寺さんの参道であったと聞いたことがあります。京都にかぎらずに、お寺というものは、もともと、広大な地域をもっていたものです。建仁寺さんがいまより、北に南に、東に西に広がっていたとしても、決して不思議ではありません。
 お寺さんといえば、参詣人などでにぎわったところ、いまの花見小路あたり、人通りの多いところであったことはちがいなく、そういうところで菊花展なども催されたようでありました。出店などもあったにちがいなく、わたしの先祖たちも、楽しげに、何かしら台の上にのって写っています。

 現在の花見小路は、祇園のまんなかになって、ますます華麗、特に、四条から南へ、忠臣蔵で有名な、かの、一力茶屋のあたりからは、近ごろ、みやびな、どこかしら粋とさえ感じられる石が使われて、立派な舗道となっています。
 左右の屋並は、昔ながらのお茶屋、置屋の風情をのこし、小料理屋、みやげものの店となっているところもありますが、その趣きはかわることはありません。
 思えば、いま、京都で、観光のみなさまに、一番見ていただきたいスポットであるかも知れません。今昔の変化があまりなく、素直な表情を残しています。これは、祇園町という町のいうにいわれぬ偉大な力によるものかもしれません。
 夕暮れともなりますと、京都の本物の芸妓さん、舞妓さんが、「お母さん、姉さん、おおきに、よろしうおたの申します」と、あちらこちらの軒から、路地から姿をあらわします。町は明るすぎず、暗からず、夜の光も美しく保たれています。
 ところが、よい意味で、歩車道の区別など、無粋なものをつけないその地域を、自動車進入禁止にしない京都市の考え方が、まことに惜しまれてなりません。
 わたしは、祇園歌舞練場の催しに行くとき、また、春なれば都をどりのときなど、観光のみなさまに、また京都のわれわれのためにも、安心して歩ける道にしたいと願っています。
 特に観光のみなさまには、ドアからドアへ、京都の一つの地点から、一つの地点へ移動するというだけでなく、せめて、よい道だけでも歩いていただきたいと切望するからです。

 これから梅雨、特に、京都は、「降りみ降らずみ」の趣向たっぷりの日々がつづきます。花見小路などの道を、傘をひらいたり、とじたりしながら、歩いてくださいませ。京都の観光は雨の日がよいとさえいわれております。そのためにも。
 ほれ、こっぽりの音が、こぼこぼと聞こえます。夕暮れは、ぼんやりと外灯がともります。花見小路は、特にすぐれたところ、折角の趣向の道を、そぞろに歩いて下さい。
 花見小路、ほんとうに美しい名前の道です。わたしの先祖も、うれしそうな顔をして、花見小路で、昔の写真に納っています。何だか昔の人が花見小路にかける気持ちも浮いて見えます。
 これからの花見小路、いつまでも花見小路、その名のとおりの道がつづきますように、祈りをこめて。


さくらと百日紅

 そもそも、「さくらと百日紅」、この題名から、何を、誰を思い起こしていただけるか心配いたしますが、いまは爛漫の春、この季節に書いておきたいことではありました。

 四条の一力から花見小路を上って、白川沿いを西へ入った巽橋の近くの川岸、そこにはいうまでもなく京名所の一つにあげられる吉井勇の歌碑が建っています。頃は四月、その周辺は花ざかり、まさに花酔れ(はなどれ)と呼ぶにふさわしいとき、京都を訪れる人々は、必ずといっていいほどに、巽橋にたたずみ、カメラにおさまり、やや西のその碑の前にたむろします。歌人と名乗る種類の人も、いまさらに恥ずかしげもなくたたずみつつ、その歌を口ずさんだりしているのです。いうまでもない、「かにかくに」に始まる歌です。すでにこの項「京都今昔はなし」では先に書き記しております。

 ところで題の意味に触れていかなくてはなりません。そこには勇がおります。多くの人が白川のその碑の歌を口ずさんでいてくださるチャンス、この季節に「百日紅と勇」についての今昔ばなしをしておこうと思います。

 さて第一歌集『酒ほがひ』の「祇園冊子」の中に納められた歌碑のその歌以降、京都への永住までの勇は、離婚、家督相続による負債など、大きな人生の転換を経つつあった期間を過ごしておりました。土佐山中への隠棲はまさに自らへの流罪、生弔いでもあったのですが、昭和13年、勇は再婚の妻、孝子をともなって、京都市左京区北白川東蔦町の借家へ落ち着きました。その門前にあったのが百日紅の樹でありました。「百日紅の花のあかさやしみじみとこよひは妹(いも)に頬よせむもの」などと詠んでおります。花は真っ赤であったことが証明されています。北白川には昭和19年まで住みました。

 わたしはその近くに近年、住みながら、回り道をしてもその前を通り、勇が住んだ証のようなその「百日紅」を季節ごとに、どんなにか眺め続けたことでしょう。花はまさに燃えるような赤でした。ところがつい先ごろのことでした、門前が改築されました。わたしは慌てて百日紅を探しましたがありません。勇がいた日から、幾星霜、育ち続けた老木は大きな切り株を残すのみの姿となってしまったのでした。それは吉井勇のみのことではありませんが、近ごろ、あの方のと思う、京都にお名残惜しい方々の住いが事も無く消えゆきます。それぞれ後に住まわれるお方のご都合のことながら、よいことですし、何かのしるしが残せないものかとしきりに思われてなりません。勇の終の棲家は銀閣寺門前町、そこにもなんのしるしも見当たりません。


今様「錦」艶模様

 京都に錦小路通(にしきのこうじどおり)と名のつく道があります。改まっていうとそうなりますが、ここは錦。京都のお台所。ここへくれば食料品はなんでもあります。京都の中心的な市場街というところです。しかし食料品の買い物はここへ京都中から誰もが集まるわけではありません。観光用説明にはそういう向きがありますが、お祭りでも買い物でも食べることでも、京都の人間は一、二の三で同じことをしているわけではなく、それぞれの町で買い、やっぱり錦まで足をのばさんとというものだけのために来たりするのです。それはとても大事なこととして。

 しかし、さて、近ごろは、そういうお台所的な景色がうすくなって、観光客用の通行路、市場道に変貌しつつあります。古い大きい店が大戸を下ろしたと思っていたら、地元用でないいろんな、それも食料だけでない店が現れたりしているのが今様「錦」です。つい先年までは、たすきをはずしただけの前垂れがけの主婦が多かったのに、この頃、錦へいくのに、一枚着替えていかんならんという風情。京都中がよそ行きになってきました。そういうところが、近ごろ京都の或いは錦の艶模様でしょうか。

 昔々の話を少し。この道の名は勅命によって出来ました。勅命とは昔の言葉で天皇の指示のこと。このあたり「糞の小路」と呼ばれた時代がありました。偉い坊さんにご飯を食べさせてもらった、人間の目には見えない餓鬼どもがここへ来て、一斉に糞便を垂れ流したというはなしからです。あまりきたない話なので、時の天皇が一度に美しい「錦」の名をあたえて飛び切り清らかにしたのでした。そのせいかこのあたり清水がよく沸きます。京都で井戸水の一番よいところです。これも餓鬼どもにたくさんご飯をたべさせた偉い坊さんの功徳からでしょうか。ちょっとのぞいて見てください。観光客の知らない錦の大店の奥庭の立派さを。そこにわたしどもの「錦」があります。


石段下から高台寺、その女たち

 祇園石段下から、石段をとんとんと上って、節分でにぎわう八坂神社の境内へ。節分といえば吉田神社と思っていたが、昨今は、どちらさんも盛大であると感じ入るが、やはり産土神はなつかしゅう拝殿に手を合わせ正門の南楼門から下河原へ。その左手、まだ鳥居内の中村楼は応仁の乱後に、円山にぽうっと灯をともした二軒茶屋の一つ。鴨川の河原からその灯が見えて誰もがほっと一息ついたという。

  ところで、この茶屋は「祇園三女」といわれて、親、娘、孫の三代の歌人、梶女、百合女、町女に由縁するところであった。梶女は元禄から宝永のころの人、その家集『梶の葉』には友禅染の創始者ともいわれる知恩院前の宮崎友禅斎が多数の挿絵を描いた。百合女は梶女の養女で、その茶店を継ぎ町女を産む。町女は南画家池大雅(いけのたいが)に嫁ぎ仲むつまじく書画を楽しみ、歌を詠んだ。号を玉瀾というが、中村楼では現在、その姿を描いた敷紙を料理の膳に使っている。

  中村楼の東南山手の音楽堂前には祇園女御塚があるはずと歩みをすすめたが、その姿がなくこれはこれはと驚いた。これも現在という浮世のなせる業(わざ)、今昔ばなしとはなったようだ。祇園女御とは白河法王の寵愛を受け、お子を産んだ女。そのお子は平清盛であるとは大方が知っている。この塚はさわると祟りがあるものと幾世をかけて信じ続けられてきたものを。やがて高台寺、この寺は北政所(きたのまんどころ)ねねが夫、秀吉の菩提を弔うために創建したもの。昔このあたりは菊渓川と清水の音羽山から流れ出る轟川のため一面の河原であった。ねねはさぞかし寂しかったであろう、芸達者な女達を集めて楽しんだらしい。それらの女たちを俗に何故か山ネコと呼ぶ。祇園の芸子と一線を劃し、すこぶる見識は高かったという。


京都のお正月

 京都のお正月は一口にいえば地味です。地味とはいうまでもなく派手でない、静か、昔なれば羽根突きの音が、かちん、かちんと聞こえるような、「ひとめ、ふため、みやこし、よめご」そんな羽根突き唄も門(かど)から伝わってくるような気持ちのお正月です。自分の町内のことぐらいしか知らないというのが本当です。家族で、それこそ地味に、親しく、ゆっくりお座敷に集まって過ごしたものでした。

 しかし、これは京都のことといいましても、わが家のことです。お話しする場合それでいいのだと、このごろ思うようになりました。他所さんは知りません。このごろ京都の者は京都のことを何でも知ってんとあかんような風潮がありますが、京都人の京都知らずがほんとうと違うかなと思うようになりました。自分の家の風習を守っていたら、他所さんのことにかまっておられません。他所さんは他所さんでご立派、そう思わせていただいているのがいうなれば、また京都です。

 わたしは昭和の初めの生まれです。明治生まれの祖母がよく申しておりました「あほなこといわんとおきやす」と。声高に事知り顔にいうことを、咎めたものでした。それはそれなりに京都の歴史によるところもあろうかと、わたしは考えます。あんまり、おしゃべりしないほうが無事であったということです。先日も京都は千年も平穏でよろしいですね、といわれて驚いたことがありました。このごろ有名な「新撰組」の話もそう古いことではありませんのに。どんどん焼けもありました。鴨川の河原は血塗られているといいますのに。

 お正月のはなしからそれましたが、なにやかや、申しているうちに、わたしどもの暮らしを、少しでも、根っこからお伝えできたらと考えます。お正月のご馳走のことですが、わたしどもは、「お煮しめ」といいます。煮しめは普段も使う言葉ですが、お煮しめといいますと、ああもう、またそんな時期がきたのかと感慨を覚えるのです。こんにゃく、お豆腐、お揚げ、人参などの煮しめ、それから棒鱈と海老芋の夫婦炊き、その照りのよい、お重詰めを見ていただきたいものです。お重箱は高蒔絵の文様です。


石器時代の主食「くだもの」から京菓子へ

 菓子は元来、植物の果実を指し、宮中の神饌には、果物をはじめ昆布に至るまでを菓子といいますが、さて京菓子とは、京人形、京白粉、京呉服と同じで、京都でつくられたお菓子、その京菓子は分類すると、蒸菓子、干菓子、棹物(羊羹)、中菓子(松露の類)といった形式になります。用途としては、朝廷に納めたもの、神祭佛供、茶の菓子、祝い菓子、間食用などに分けられます。しかし何といっても京菓子の特徴は味覚だけでなく、香りや色や形から、人間の情感に訴える存在感がなくてはなりません。もう少しわかりやすくいえば、夢と楽しさでしょうか。

 取りあえず、11月は「亥の子餅」と「吹き寄せ」など。亥の子餅とは、中国の無病のまじないで、亥の日(今年は11月16日)に搗いていただくお餅のこと。茶道ではこの日を炉開きと決め、町家ではこの日から炬燵(こたつ)を出しました。「吹き寄せ」は赤いもみじ、黄色い銀杏などの葉を風が吹き寄せる情感を表現したお干菓子です。

 昔、砂糖が貴重品でありました時代、旨さは甘さと同じで、おいしいお菓子をいただくことは体内に新しい魂を取り入れることでもありました。京菓子のこころもそういうところにあったと思われます。


京都と歌人吉井勇

 京都の歳時を細やかに表現しつくした第一人者、歌人吉井勇の名が、その情感を保つ京都とともに忘れられつつあることを肌に感じます。

 吉井は明治19年東京高輪に生まれ、二十歳のとき与謝野寛の「新詩社」に参加、二十三歳にて脱退、明治43年、生まれて初めて得た戯曲「偶像」による原稿料で京都に遊びました。白川畔にのこる歌碑「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる」はそのときに詠んだ歌です。土佐隠棲をへて昭和13年、再婚の夫人孝子をともない、京都市左京区北白川蔦町に居住、のち、現在の同区銀閣寺前町に移住しますが、京都を第二の故郷として晩年を過ごしました。

 昭和17年刊の『短歌歳時記』は、京都の一月から十二月までの歳時を詠んだ歌が、季節の言葉をつけて編集されています。十月には太秦牛祭、時代祭、秋の雨などと題をつけ、「秋の雨法然院の施餓鬼会(せがきえ)のその日をひと日降りみ降らずみ」「京さむし鐘の音さへ氷るやと言ひつつ冷えし酒をすすりぬ」の歌が、十一月には火焚祭、芭蕉忌、時雨などと題をつけ、「しめやかに時雨の過ぐる音聴こゆ嵯峨はもさびし君とゆけども」「落葉みちを二尊院へとのぼり来て秋の深さにおどろきにけり」などの歌が見えます。

 吉井はなお、都をどりに「夢模様謡曲絵巻」「京舞華洛屏風」を企画上演、料亭、京菓子舗にも親しみ、惜しむことない賛歌「瓢亭の朝粥すヽり松に吹く風の音聞けば心すがしも」などをも寄せています。その作品世界から入ることにより、高められる京都の認識度を思うとき、時代感覚だけで吉井勇が忘れられていくことが惜しまれます。時代感覚こそ京都にとって大切なものではないかと思われてなりません。

 やがて師走、顔見世の歌を一首、最後に置きます。「南座の顔見世近し澤瀉屋(おもだかや)来(く)とうれしげに言ふは誰(た)が子ぞ


懐中ぜんざいとは

 懐中ぜんざいがおいしい季節です。夏の終わりを告げるような嵐が過ぎて、外の照り返しは暑いのに、そんな景色をすだれ越しに眺めながら、わが家の座敷で短歌の仲間たちと懐中ぜんざいをいただきました。餅粉で作った皮に熱湯を注ぎますと、中に包まれていた乾燥した晒し餡がとけておぜんざいになります。不思議な気分です。しかし「懐中ぜんざい」の名もしらず、たべたこともないという人がそろそろ増えてきましたので、この時期その説明をしておきたいと思い立ちました。

 「懐中ぜんざいは、冬など、寒い時期に食べるものと思っておられる方が多いものです。しかしながら、この懐中ぜんざいというお菓子は、明治時代、中期、今から約百二十年前に、真夏に、日持ちする菓子として、この京都で、考案され創出されたものです。お中元や暑中見舞い、残暑お伺いのお菓子として百年以上のあいだ、京の人たちに愛用されてきたものです。真夏の旅行の折り「ふところ」に入れて持ち歩き、休憩時に此れを食べると、疲れをとり、暑気当たりを防ぐと言われて「懐中」の名が生まれたと伝わっています。京の町の人々は、真夏の暑い時期に「瓜の葛引き」や「ぼたん鱧」のような熱いお料理を食べて、身も心も引き締めて暑気当たりしないようにするのが慣わしです。」(京菓子司末富談)いろんな姿、形をしたものがあり、この九月は「十五夜」と名づけられ、うさぎやススキの焼き印模様に雅味があふれます。わたしは幼いときから大好きでした。初冬になっていただくこともありましたが。

 ところで、夏目漱石は『京に着ける夕』に、かんからかん(人力車)に乗って京都駅から寒く暗い道を下鴨に向かうとき、ところどころ軒下に赤くぜんざいと書いた提灯を見つけ「桓武天皇の御宇(ぎょう)に、ぜんざいが軒下に赤く染め抜かれていたかは、わかりやすからぬ歴史上の疑問である。しかし赤いぜんざいと京都とはとうてい離されない。離されない以上は千年の歴史を有する京都に千年の歴史を有するぜんざいが無くてはならぬ」と書いています。我が家はかんからかんの帳場をやっていました。それとぜんざいと底冷えの京都、何やらお腹のなかに承知するものがあります。


ゆかた(浴衣)は、ゆかたびら(湯帷子)

 七月は祇園祭でしたし、八月は大文字がともります。ゆかたを着るときが多いことです。しかし祇園祭だから、大文字だから浴衣を着るのではなく、ゆかたは、ゆかたびら、ゆぐ、ゆまきといい貴人が入浴のときに、また浴後に着たものでした。ですからゆかたは浴衣と書きます。本来は麻でしたが、江戸時代木綿地となり、一般にも用いられるようになりました。それでも浴あがりに着るというのが習いで、人前で着るものではなかったことは、現代の女性には基礎的なエチケットとして知っておいていただきたいものと思います。

 明治時代になって、ゆかたにも綿絽、綿縮(ちぢみ)など、染めも本染の高級ゆかたができてきましたが、基本的には外出着ではありませんでした。そもそもゆかたは裾除(すそよけ・腰巻)だけをつけ、素肌に着るものです。足も当然素足、黒塗りの下駄。しかし外へ出るとなれば、いささかは上物を心得、八寸名古屋帯、半襦袢を身に着けるくらいの気持ちだけは持ってほしいものです。昼間の浴衣はうっかり気をゆるめるとだらしなくなり勝ちです。まるで寝間からぬけでてきた女のように。ざっくり、粋(いき)に着こなすには、相当のキャリアが必要です。自分はできなくても、そいうことを知っているのといなのとはえらい違いです。
 涼やかに、清潔に大文字を背にして立つ京女こそ、いま、失いたくない京の文化であると思います。

 ついでに、女の知恵として、木綿のゆかたは庶民の家では、古くなればそれこそ寝巻きに、また赤ん坊のおむつとして絶好の布となりました。寝巻きもおむつも、あまりしゃきしゃきより柔らかい感触が好まれます。大文字の夜、デートに着たゆかたが寝巻きや赤ん坊のおむつになって、干し物竿に高々と干されている、それは幸せの象徴でありました。赤ん坊は全身の大方はおむつで包まれています。陽に干された柔らかい木綿のおむつをあてたときの赤ん坊の表情をご存知ですか。わたしは文化とはそういうものだと考えます。


町家の暮らし・京都の暮らし

 近頃町家が話題になっています。町家は暮らしの場です。
暮らしの場とは、日々、寝て起きて、ご飯をつくり、食べるところ、家族が泣いたり笑ったり、助け合って人生を過ごすところ、そのための商いをするところです。近在の材料を使い、必要となったことは念入りにだんだん付け加え、調和を調え、町全体の景色も考えながら、家の中の景色もよしとし、江戸中期に完成したものでした。近在の材料を使うということは、人間が生まれた土地でとれた食べ物をいただくことが、一番、身体のためによいのと同じことです。

 わたしたちの暮らしの場はふつう民家、農家もそのひとつですが、京都の木造建築で古ければ、町家々々いわれやすいのはおかしな風潮だと思ってます。わたしの家は加茂川より東、町の中ではありませんのに、町家でお暮らしでよろしいですね、とかいわれて驚きます。町家は一軒だけで成立するものでなく、その町の景観とともに、たとえば、軒をそろえることなどがなされて出来上がる風景、景色とでもいうものとわたしは思っております。町のなかでも、古くからの学者さんの家などは町家とはいいません。町家はすべからく、商売人の家、建て方から使い方までそうであります。

 町家が暮らしの場であることと同時に京都はわたしたちの暮らしの場です。町家もわたしどもの民家も、また銀行さん、デパートのビルディングも風景に溶け合って、東山、北山、西山の三方にやわらかに抱かれて、また、お越しの皆様にもよろこんでいただける、やさしい京都を未来もつくってゆきたいものと考えます。何故町家が美しいのか、それは先に書きましたように、ご近所との調和を考えてつくられたからでした。風景を大事にしたからでした。


京の文化と炭と灰

 炭と灰のことを考える前に、もはや、炭と灰を知っていますかと、問いなおさなければならない時代のようである。長い日本人の暮らしの中で、燃料として大切にされてきた薪、炭、そしておのずから、そこに生じた灰は、わたしたちの身辺から消えてしまった。しかしながら、炭でなければ、灰でなければという独特の文化があることまで忘れていいだろうか。

 身近なことで、薯蕷饅頭に押す焼印、これは京菓子には欠かせないこと、季節のしるし、桜、もみじ、松などを押す場合、焼印は炭の熱加減が最高。次に京都にはお寺が多い、法衣などを染める工程で布の色具合を見るため布を炭火で炙(あぶ)ることがある。微妙な宗派の色あわせには大切な仕事。京蒔絵にも炭は必須。蒔絵の金は炭で磨く。また高蒔絵といい分厚い高級品は炭の粉を蒔いて盛り上げる。清水焼など焼き物の釉薬には灰が必須。近頃喜ばれる草木染め、これには媒洗剤としての灰汁(あく)が必須。茶道文化にはいうまでもない。言葉としても炭で炙る、灰でおぼむなども死語に近い。炙るは焼くよりやわらかく、おぼむは灰をゆたかにかけて炭火を保護すること、そんな文化も昔語りにしていいのだろうか。


碑は語り部だから

 京都には数知れぬ、史跡を物語る碑がある。京都に生まれて、それらは日常のなかに見、友達のように触れ合ってきたというのが実感。ところがそれらが、最近、住宅の立替などでいささか痛めつけられていることを、わが身の痛みとして感じている。生家に近いところで、木屋町三条上がる「佐久間象山寓居之跡」の碑は、ガレージの入り口にあるため、すっかり排気ガスでよごれ、手でさすりながらようやくに字面がたどれる程度。なお場所は動かされていないが、背面などは見えにくい環境にある。現在、中京の碁盤の目といわれる町筋にはこの種の碑が多い。背面、横面とも建物に押し付けられて、解読不能。

 いまひとつ、象山の碑から三軒南の場所にあった、これは碑ではなかったが「平井収二郎寓居跡」の駒札は消えて久しい。土佐藩、平井収二郎は武市半平太の尊攘説に心酔して京都入りし、御所内に勤皇派の実動勢力を働きかけていたが、藩主、山内容堂の命令により呼び戻され、高知で切腹させられた。司馬遼太郎も物語っている人物。渋沢栄一が「三十六峰一眸の中」の書を残した、旅館「玉川楼」の跡、現在はやはりガレージ。

 歌人では左京区岡崎東福ノ川町の「香川景樹宅址」がいま、辛うじて近隣の方々に守られて建っているが危ない。谷崎潤一郎は景樹の宅址について、「その有無を突き止めるために人を遣って尋ねさせ・・・、念のために市役所の文書課へも遣って尋ねさせたところ香川景樹については墓の標識はあるけれども宅址は不明であることが分かった。」と随筆に書き残している。それは昭和20年頃であったか、しかし、碑は大正6年3月確かに京都市教育会が建てていることは背面の文字に確か。わたしは、その時代、女学生であってしっかり見ている。現今もその程度の扱いしかすべての碑においてもされていないのかも知れないと思われてならない現状ではある。


京都・そのひびき、そのGAKU
 雅楽は、雅正の楽、正しい楽の意があり、孔子が理想の王朝とした周の時代、神に捧げた音楽であった。日本に伝わったのは奈良時代前後。古楽である神楽、久米歌、東遊びや、唐楽、高麗楽の影響下につくられた催馬楽、朗詠をもふくめた宮廷音楽全般を指す。最盛期は平安時代。ところで、この春、3月29日夜、「京都の韻(ひびき)」と題された篳篥、笙、龍笛の初演奏がオーケストラをバックに、京都会館において公開された。篳篥は奈良時代からの楽家(がっけ)に生まれた東儀秀樹の演奏、この曲の作曲者。折りからの雨に重たく濡れそぼつ桜は1200年の古都そのものの風情であった。
 なお5月8日夜には、『「楽(GAKU)」音(Oto)謡(Uta)舞(Mai)』‘2B‘の演奏会が、府民ホール・アルティで行われる。製作・演出は前田健。式子内親王が、紫式部が、小野小町が能舞、バッハ、ブリテンの音楽を背景に、短歌の披講を享け青葉の闇に浮きあがる。
 両者とも、古き酒袋からたちあがる若き龍のごとき精力をもって、これからの京都を奮い立たせるさせるには違いない韻(ひびき)、楽(GAKU)ではあろう。

比叡を歩く、谷道、峰道をたずねて
 比叡山に登る人々の大方がドライブウェイを利用する現在、一度ゆっくりと比叡山を見直して見たいもの。比叡山は京都と滋賀の境に南北に連なる山脈。南端は如意ヶ岳にはじまり、主峰は大比叡ヶ岳(848メートル)、次峰は四明ヶ岳(838メートル)、それに釈迦ヶ岳、三石岳、水井山の五つより形成されている。
 宗教の場は、山上の尾根や谷間の平坦地を利用して伽藍、僧坊が営まれ、南から東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)と三つの地域に大別、それぞれに谷や別所を有し、これらを総称して「三塔、十六谷、二別所」と呼ぶ。
 京都側からの登山道を改めて紹介しておこう。修学院からの雲母坂、北白川からの北白川路、八瀬側からの走り出道が三つ、いまはどの道も落葉が深く通う人はまれの様子、しかしながら、おとずれてみると、昔の人の足跡がしみじみと偲ばれる。山は踏みしめて登るべきものとも思われてくる。比叡山はその麓の京都とともに、建築群や伝統的な法儀をふくめ重要な文化の地とはなっている。「今昔」という言葉は昔と今を見比べて起こる感慨によるもの、谷道、峰道を時には踏んで、身体の空気を入れ替えるのも京都を形成する文化に直接触れる近道かもしれない。

戊辰の京都を見る
 戊辰の役は、最後の将軍徳川慶喜を奉じる会津・桑名などの幕府軍(東軍)と、勤皇派の薩摩・長州軍(西軍)が慶応4年(1868)1月3日、4日と、鳥羽・伏見の両方面で戦った内戦。結果、幕府軍の大敗に終わり、維新の大局を決したものであったが、往時は旧暦、すなわち2月のこと、この戦いには当然、幕府軍に属していた新選組も参戦、多くの戦死者を出している。
 幕府軍はじりじりと敗退、4日には、現在の淀競馬場近くの納所村(のうそむら)妙教寺近辺が戦場となる。壁を破って砲弾が飛び込み、柱を貫いたという当寺の本堂の前、右手には、台座をふくめ約3メートルの切石の碑があり、正面の文字は「戊辰の役東軍戦死者之碑」と読めるが、その左側面には「戦死者埋骨地三所 一、在下鳥羽悲願時 一、納所村愛宕茶屋 一、八番楳木(うめのき)」と読める。当寺では戊辰の役以来、毎年旧暦の2月4日には悲運にも賊軍となり、その死体すら放置された東軍の戦死者の供養を続けている。
 埋骨地の一つ、愛宕茶屋は、旧千本通りに沿う桂川の堤防下、行く手に比叡、左手川向こうに愛宕と、京都を囲む山並みの姿が一望のもとに眺められる場所、その地名は、もとここに鎮火の神として名高い愛宕神社の分祠された小祠があり、堤防上には、旅人の憩う茶屋があったことによる。まさしく、そこが激戦の地となった。かたわらに二抱え半ほどの銀杏の老木が目印のごとくそびえている。
 京都とはいえ、ここまで来ると都は遠い、十条の羅生門からさえも、千本通りを歩いてはるか、いま、今この場所を知る人が幾人あるだろう。雪こそ少ないといえ京都が一番寒い旧正月、この桂川沿いに散らばった死体を想像してみる。勤皇派の目を恐れて、それらを始末をする人すらなかったという。慶応4年戊辰の年の京都の姿であった。

祗園さんのおけら詣り
 おけら詣りというと、大晦日のお詣りのようにいう人もあるが、ほんとうは元旦の朝のお詣りである。京都の商家では、お正月料理のお煮しめを重箱に詰め終わると、「さこれでよろしおす、ほんなら、お火もらいに行きまひょか」ということになる。
お火もらいとはおけら詣りのこと、お雑煮を炊く火をもらいに行くのである。お煮しめとはお節(せち)料理のこと、京都では古くからはお正月の料理をお煮しめという。お節とはいわない。棒鱈と海老芋の炊き合わせやら、焼豆腐、お揚げ、ひりょうす、こんにゃくを炊き合わす。そういうものお正月からをいただいて、一年を質素にお暮らしやすという先祖の教えである。
 さておけら詣りは元朝の寅の刻(午前四時半前後)の削り掛けに始まる神事に詣ること。「都名所図会」にもその時刻、拝殿の四方には削り掛けの木が十八ヶ処あって、法楽が終わるとこれに火をつけ、若水を汲んで神に奉る。その火を参詣の人々が縄にうつし、家に持ち帰って竈に火をつけるとある。
 火縄はあらかじめ用意し、火をうつしてもらうと、消えないようにくるくる回して持ち帰るのが風習。改めてのことになったが、祗園さん、すなわち八坂神社の正門は南の下河原の石の大鳥居である。入ったところが二軒茶屋、昔は「火縄どうどす、吉兆、吉兆、おけら縄」とそのあたり、火縄売りが列をなしていた。帰りがけの人がくるくる回す火の明りで祗園さんの社殿が闇に浮くようであった。削り掛けとは、堺町に昔から続いたお箸問屋さんが、一年中のお箸の削り屑を唐櫃に納めて、おけら火のために奉納したもの。
 ところで、除夜の鐘が鳴り止む子の刻(真夜中)、昔、祗園さんで悪態(あくたれ)祭りというものがあった。神前のろうそくを消して、互いに人の顔が見えぬ時、お詣りの男女が左右に立ち分かれ、悪口のさまざまをいい合い、最後は大笑いをするのである。特別お祭りが無くても年中陰口を言っている人もあろうが、昔の人の知恵はありがたいものだ。


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