第11回 京都の料理、その仕来りいろいろ その二
第10回 京都の料理、その仕来りいろいろ
第9回 昔の智恵、それは親心の
第8回 雨に消えてしまった「鷺舞」の夢
第7回 齢のけじめ
第6回 白川女と花
第5回 京のお食べ初め
第4回 里子のおはなし
第3回 われわれのお雛祭りの仕来りは
第2回 京女立つて垂れるがすこしきず
第1回 内祝

京都の料理、その仕来りいろいろ その二

 冬の傾いた日ざしというものは、思いがけないところに、思いがけない影をつくって、見惚れさすことがあります。そこへ手をもっていってさぐると、手の影が映るあたりから日ざしが来ていることがわかります。あるかなしかの日ざし、あるかなしかの影です。
そんな影あるところでいただくのが京都の料理でした。

あちゃら〜いろいろの野菜を入れて、南蛮から来たものに由来する。かぶら、人参などを二杯酢につけるが、奈良漬けはお湯をくぐらせてから、昆布を結んで、味をつけ、二日ほど置く。たかのつめも加える。

羹物〜肉、野菜を入れた熱い吸い物。

甘酢〜酢大匙二、塩小匙三分の一、砂糖大匙三。

射込み〜素材はいろいろだが、中身を抜いて、別の素材をつめる。月環ともいい、豆腐の中に、すっぽんの身をつめて切ると、月とすっぽんということになる。瓜類でもいい。

岩梨〜実が梨に似ているのでこの名がある。北海道南部、本州の山地に生える常緑低木で、低く地に伏して生える。早春、淡紅色の鐘形の花が咲く。

粟麩吉野煮〜地をよけい目にして、生粟麩を先に葛粉にまぶし、地に葛を入れて炊く。

印籠煮〜印籠の形にして煮たもの。印籠は昔、薬などを入れて腰に下げた筒型の携帯用のもの。

旨出汁濃〜出汁のこと。昆布、かつをを多い目に使う。

柑橘和え〜三つ葉など、湯をとおし、さらに水を落とおして、柚、だいだい、みかん、レモンを散らす。

甘露煮〜甘露は仏教でいう言葉で、うまみ、醍醐味とか、もののうまさなど、人界で味わえないような味のことであるが、栗の場合、驚くほどの風味の甘さをいう。

金子〜なまこを乾燥させたもの。

虚無僧茸〜虚無僧は普化宗の僧で、深編み笠をかぶり尺八を吹きながら、諸国を回り修行をする。その深編み笠の形をした茸である。

西京焼〜西京味噌をつけて焼く田楽など。麹を米でつくる甘い味噌、白味噌で、京都でつくる味噌をいう。京都は御所を中心に料理が出来たともいう面もあって、こういう風味の味噌が出来ている。

しんじょ〜魚介や鶏、野菜のすり身に玉子の白身や山芋を加え、調味料を入れてすり混ぜ、蒸すかゆでるかして形にまとめる。

杉板焼〜杉の木の匂いを移すため、さわら、ぐじなどの切り身を醤油、味醂をつけて、両面を杉板に包んで焼く。

大徳寺納豆〜京都特産の味噌のような風味のある黒い色の塩辛納豆。夏季に蒸し、または煮た大豆に麹菌を作用させ、塩味をつけて日干しする。本来は禅僧が日常の食事に用いたもので、主として大徳寺の山内でつくった。禅僧とともに、中国から伝わったため、唐納豆とも呼ぶ。

 以上、板前新三さんからの聞き書きです。

 この月十三日は事始め、この日から、お正月の準備をします。昔は煤払いという、清めのための、大掛かりな掃除もご近所さんの迷惑にならぬよう、お互いに揃ってしたものです。旧家では、別家は主家に旧年の礼をいいにいきます。一つ一つ事をすませるのは、気持ちのよいことです。仕事のころあいを見計らって、エプロンの裾で手を拭き拭き、一張羅に着替えて、顔見世に走ったものです。一般的に「おせち」と呼ぶ、お正月の料理は、京都では「お煮しめ」と申します。地味なものを煮しめて、正月から一年の計と申しますか、地味に暮らしまひょという慣わしになっております。


京都の料理、その仕来りいろいろ

 京都の春と秋の穏やかさは、その夏と冬の厳しさがあってのことです。年中行事も、暮らしも料理屋さんの料理も、それについてまわります。それがうまくまわらないと京都そのものがうまく回らないのです。

仕来りやの何のと人為的にいいますけれど、結局は、京都はその自然の運行にうまいことのせてもらわないことには、何事もうまく仕上がらないのです。。

そんな中から今回は料理、その材料、あるいはその過程にプロが語るところの名称を列挙してみたいと思います。目で見る一つの仕来り、約束事ではございます。

潮仕立(うしおしたて)〜漁師が海辺で、魚のあらでおつゆをつくるように、鮮度のよい鯛の頭など、脂のきついのは避けて、塩加減と昆布だけで出汁をとること。蛤の吸い物などのために使う。

雲丹焼(うにやき)〜とげのままの雲丹を焼く場合と、雲丹に玉子の黄身を入れ、魚にのせて焼く場合がある。

旨煮(うまに)〜そのものをよく知って、季節に合わせて煮る。炊きたてをたべてもらう。

懐石うつし〜固定した形式から、何品かとる。そのようにすることをいう。

風干(かざぼし)〜鮮度のよい魚を塩水に10分くらい漬けてから、日光に当てないで、風に干す。塩の多い少ないが出来なくてよい。焼いたときくずれない。

唐蒸(からむし)〜油で揚げて蒸す。鯉の丸揚げなど。唐という字は中国からの渡来を意味する。

砧巻(きぬたまき)〜砧の上に槌で打ってやわらげ、艶を出す、美しい白い布のように、かぶらでサーモンの素材を巻いたもの。人を待ちながら打つ砧の音とか、遠く聞くその音はさみしいもの、そういう風情をこの料理はあらわす。

葛たたき〜折りたたんだ紙に葛を入れて、材料をはさんで、れんげで軽くたたく。

五味五法(ごみごほう)〜京料理の五つの味、五つの料理法の意で、いろいろの味、いろいろの料理法をいう。

酒煎(さかいり)〜魚介類や鶏肉など、白焼きにしてから、酒で煎る。

神馬草(じんばそう)〜乾物と生がある。海草のほんだわらのこと。吸い物、つくりのあしらい。

千代呂木(ちよろぎ)〜ちょろぎともいう。巻貝の形をした中国原産の紫蘇科の多年草の地下茎。塩漬けや酢漬けにすることが多い。

箸休め〜あっさりした、おそばやそうめん等。

ちり蒸し〜ちりはちぢむの意がある。さっとお湯を見せる程度にお湯を通すが、鮮度が高くないとちぢまない。

七草粥(ななくさかゆ)〜七草は、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろの七種の春の草をいう。一月七日にその七草を入れて炊くかゆのこと。

ぬた和え〜ぬたは田植えのときの水田、ぬまたの意。味噌を主体に、赤貝などの貝類を入れる。

八方煮(はっぽうに)〜濃いめの出汁をとって、醤油はひかえる。八方向きした地で煮るもの。

雪持ちいくら〜鮭の子を酒にさっと通して、玉子の白身を淡雪にしてかけるなど、雪を置く風情を示す。

蝋焼き、青蝋焼き〜蝋焼きの場合は、玉子の黄身を塗って焼く。青蝋焼きは青菜とかよせ菜をすって、白身を塗って焼く。鱧、海老が多い。

 以上は、板前新三さんから、田中が聞き書きしたものです。来月もつづきを書かせていただくつもりです。


昔の智恵、それは親心の

 何事にも初めがあります。これはいささか昔のお話のようですが、昔の京都の生活の底の方に沈んでいる、思えば、もっさりした、辛気臭い出来事も仕来りも、いまとなれば、かえって新鮮なことにも思われ、不思議な人間臭をもただよわせるものとも、合理的なこととも考えられて興味深く思われます。
 このはなしは男と女の初めの話です。恋しあっての結婚にしろ、お見合いにしろそれは同じだと思います。しかしながらお見合いは一つ善意の仕掛けのようなものです。そこには、昔ながらの場所の決まりがありました。それはなんでもないように見えて、いいあわせのような約束事でありました。
 たとえば、京都では六角堂の夜店はよい縁のつなぎになるという暗黙の伝統的な言い伝えがありました。夜店へ行く娘に親はよい着物を着せてやるのは、当然の心づかいでした。そのとき娘は何も知らないのです。そのようにして動いて行く社会があったことは、かえってむしろ新鮮な驚きです。
 また一方では、娘はめったに外へ出ませんでした。お母さん達は井戸端会議に興じていても、娘は入れませんでした。しかしながら、奥まった座敷にばかりいて、娘があるのかないのかわからないのでは困ったものです。親は苦労します。娘は今と代わらず考えていることも、親が知ったらびっくりすることもあったでしょうに、建前は、仕来りはそうでありました。
 とにかく、そんなことばかりでは縁が遠くなるので、祇園祭の日だけ娘を見せる習慣がありました。祭りの期間中、店先とか、とにかく表に、祇園守りという、内部が赤い白むくげを一輪、花器にさして家の前に置くのでした。これは「水立てのお茶を一服差し上げます」というしるしなのです。
 これを見ると誰でも、名前を名乗らず挨拶もせずに、絨毯を敷いた奥の座敷へ入っていくことができます。何度繰り返してもよく、何の気兼ねもいりません。そこには着飾った娘さんがおり、お茶をたてて、しとやかに応対してくれるのでした。
 江戸時代から、そのようにして、祇園祭に屏風や絨毯を並べ見知らぬ人に見せる習慣がありましたが、そういうことは、そのことが主眼では決してなく、これは、箱入りの娘を見せるために案出された約束事、仕来りではありました。昔はなんといいますが、意外、現実的にしっかりしたものでありました。
 また、鞍馬の火祭りは、夜分に行われる勇壮な祭りです。このとき門口に、オハケさんといって、旗をたてかける家がありました。ここへ入りますと、娘さんがかいがいしく出てきて、赤飯と甘酒をごちそうしてくれます。もちろん無料です。これも祭りがとりもつ、ありがたいご縁が出来ますようにとの、親ごころの演出、いえ、まじめな仕来りのひとつではありました。


雨に消えてしまった「鷺舞」の夢

 今年の祇園祭の山や鉾の巡行の日は、大雨になりました。
 もう今日は巡行はないのだろうなどと、憶測して、四条烏丸の地下鉄の駅から、地上へ上がって、驚きました。
 生まれてから見続けている、あの鉾や山が、大雨の中を動いています。何かしら知らない力に引き寄せられるように、わたしは近づきました。ぐっしょり濡れそぼった曳き手さんが、まるで、水のなかを行くように、鉾を曳きます。鉾は曳かれているのか、みずから泳いでいるのか、わたしは傘を開くのも忘れて、濡れる瞼を拭き拭き、見つめました。
 これは何だろう、京都は太古、湖底でありました。ふと、そんなことが現実となって、あらわれた思いでありました。鉾がいまその深い水の底をゆく、そう見えるのでした。それはある種の恐れでもありました。そしてそこには、まことに都の平安を乞い願う民衆が、政治的にも、また、種々に満たされなかった人々への許しをも乞うごとき民衆の姿の数多が、はっきりと見えたのでありました。それは祇園祭の真の姿ではありました。そんな姿に思わず手を合わせました。
 そして、その時、ふと、思いました。今年から、再び、祇園祭の風流の一つ「鷺舞」が消えてしまったことを。再びといいますのは、鷺舞はもともと祇園祭、昔の名の祇園御霊会に、後白河法皇の時代からつきそっていた風流行列、田楽舞でありました。それを、応仁の乱のあと、なんと、五百有余年、我々の先祖は全く忘れてしまっていたのでした。どこへいったのかも分からずにおりましたものを、お守りいただき、伝承せられていました石州津和野から、昭和三〇年にお移しいただいたばかりですのに、さみしいことです。さみしさより恥ずかしさが、先に立つ思いであることを、激しい雨の中に思い見ました。
 どうぞ、「鷺舞」を再び迎えさせていただく日のありますことをと、泳ぐ如き鉾の行方を見守りながら思ったことでありました。
 仕来りという言葉を、改めて調べますと、いままでのならわし、慣例とありました。京都の人間はその心を誇りに思っているはずではございます。


齢のけじめ

  「けじめ」は区別、わかち、分かれ目、境目とでもいいましょうか、より分けるのではなく、最後にいいました「境目」がいちばんよいようです。現代の齢のけじめは、成人式に当てはまりましょうか。
 成人式を思いながら、昔の京都の成人式、「元服」と呼んだ時代の有様を少し、いくつかの例をみてみたいと思います。その後のこともともに、そこにどれだけのけじめがありましたか知りたいものです。
 中京区では、これは男子の店員さんですが、19歳になったら、その正月に元服させます。これをすますと、番頭になり羽織が着られるのです。28歳になりますと、別家、主家から暖簾分けがあり、紋付、単衣、綿入れなど着物一揃えが送られます。今の社会の会社の段階のようなものでしょう。主家へは酒樽などのお礼をします。
 左京区松ヶ崎では、長男が17歳になると2月1日に、よぼしぎ(鳥帽子着)といって、やはり元服を行いました。お母さんのお里から新しい着物つくって贈られたり、神社へまいり、お神酒と洗米を供え、帰りに近所へお神酒をふるまいました。
 北白川では、天神宮の秋祭りに、お下げの少女とお嫁にいけるくらいの娘と、中年の女性が、紋付に赤前垂れをしめて、頭の上に神饌をいただいて社前に出ます。お嫁にいけるくらいの少女は17,8歳で、今年は誰かということになり、これは女子の成人式の一例でした。
 同じく市原、久多でも、17歳の長男が「よぼしぎ」をしました。それをすませますと、一人前といいましょうか、羽織を着て皆が集まる席に出ることが出来ました。仕事には一人前の賃金が支払われました。しかしながら、一人前の仕事が出来なければならないことは当然です。
 思えば、けじめという言葉は仕来りと重なり、それを承知しないと京都は生活しにくいところではありました。あるいは京都というところはそういうことの名実が伴わないと、一人前ではない、厳しさがあるところでありました。厳しさの裏にあるあるやさしさ、やわらかさが、本当の京都であることを忘れたくありません。


白川女と花

 左京区の北白川は古くからの文化が開けたところです。昭和三十六年八月の都市計画による区画整理道路工事の現場からは、縄文時代の遺跡が発見されたりしています。ここに住んでいました、平安中期の漢学者で、菅原道真の後輩にあたる三善清行(みよしきよゆき)は、いつも、北白川の山や川原に生える花を愛しておりましたが、御所へもお持ちしてはいかがかと、里人に相談したところ、里人は大喜び、光栄なことだと心から同意、以後は、清行の指導で北白川の野生の花を朝廷に奉ることになりました。そのことから白川女と花のかかわりが具体的に深まり、名をあげることにもつながったのでした。ところで、ここでは京都の仕来りのひとつとしまして、白川女が身に着けますものなどを記してみたいと思います。

 白川女の着付けの特徴は、御所への花を奉るという御用のことからも、まず、清らかさが特色でありました。下着は一切白無垢です。上の着物も無地。下着は二日以上は着続けないというのが定めにて、毎日のように洗濯します。花売りに出て帰るとかならず洗濯をするということがたしなみとなっていました。手ぬぐいは一方が赤く染めてあるものを使います。これは山で働くので、山の神様に、「わたしは、こんなに血がでるほどに働いています」という証拠となるものでした。頭にのせる蓑籠(みのかご)は藤蔓で編みます。これに花を入れ御所へ運びます。頭にのせるのは、「戴(いただき)」といい、息がかからず、敬意を表するためであります。着物は紺の無地、帯は細帯、御所染めとなってをり、東福門院からいただいたものが初まりであったといわれております。前垂れは、三幅前垂で無地。夏は帷子(かたびら)を用います。たすきは年齢により違います。手甲(てっこう)は着物と同じ色。はばき(脚絆・きゃはん)は白色。草鞋(わらじ)を履きます。

 「花や番茶いりまへんかいなー」ときよらかな姿で、朝々、仏さんへお供えする花などを売り歩く様子は、ほんとうに美しい京の風情、そしてそのものが、仕来りでありました。そういう姿が消えて、京には仕来りといえるものが次第に消えてゆくようであります。仕来りとは何でしょう。それは人間が生きてゆくうえの、筋道でありました。


京のお食べ初め

 食べ初めとは、名のごとく、赤ちゃんが、生まれてはじめて食べ物を口にするという儀式です。生後百日目に行います。いうまでもありませんが原則的に母乳が主食の赤ちゃんのこと、これはもちろん形式の儀式です。しかしながら、一生食べることに困らぬように、何事も初めが大切という心の現れの儀式であります。また、遅いほどよいとの言い伝えもあり百二十日目に行うところもあります。これを食い延ばしといい、やはり生涯食べ物に困らぬようにとのさらなる祈りからです。形式という言葉もありますが、形式は心のあらわれでもあり、大きくなってそんな話しを聞かされることは、生涯の幸せにも繋がります。
 
 さて、当日のお膳はその母親のお里から贈ることになっています。男児はお膳もお椀も朱色で、縁に黒色で家の男紋を置きます。女児の場合はお膳、お椀とも内部のみ朱色で、お膳の縁とお椀の外側は黒色、紋は金色の女紋を置きます。その日のお膳には、まず石と膾と赤飯をそろえます。石は青い石を一つ、それも北に向いて流れる川から拾って来なければなりません。京都には北向きの流れはないといってもよく、苦労いたします。その苦労を尊しとするのでしょう。石は赤ちゃんの歯を丈夫にするためのまじない、見つからないときは蛸の足とか鰹節とか硬いものを用意し、ちょっと赤ちゃんの口にあてがうのです。ご飯粒を三粒食べさせる真似事もします。青い石は、「石のお焼きもん」ともいい、子供が脳膜炎にならないためのまじないでもありました。その石は赤ちゃんが成人するまで、台所の水がめの中に入れておく、これは熱病のまじないでありました。昔の親たちはそうした祈りとともに、子供を守り育てたものなのでした。
 
 自分のことになりますが、わたしは何故か女の子なのに朱色のお膳が使われていました。それは随分大きくなるまで、お正月は言うまでもなく、日常もそのお膳を使わされて育ちましたから、よく覚えております。我が家も随分仕来りには厳格な家でしたが、しかしながら都合もあったのでしょう、わたしが一人娘で跡取りであったからかもしれません。京都はこうだからとは何事につけてもいえないのはそういうこともあるからです。ところで大きくなって、或るお料理屋さんにいって驚いたことがありました。わたしが使っていた食べ初めのお膳がそっくりそのままに、ご馳走を盛って出されてきたことでした。何となつかしやと思い、初代の主に尋ねましたところ、古道具屋でかわいいお膳を見つけ真似をいたしましたとのこと、引き出しにまでご馳走が入っており、たっぷり楽しませていただいたことでした。京都の子供を思う親の心がそこに伝わることを念じながらにも。


里子のおはなし

 風習、風俗、仕来りどれもよく似たこと、慣わしといいますか、おのずから日常のなかで連帯をもって助け合える人のこころの現れのようなものが昔からありました。人は人を見失っては生きられないそのようにも考えられる、助け合いの仕組みで、おのずからの知恵とも言えましょう。その一つに里子というものがありました。それはずいぶん近代まであったことです。私自身もそういわれてもいい存在でありましたから。

 さて里子とは、身体の弱い子、環境を変えたい子、はっきりいって親の現況で都合の悪い子などを、町中を離れた、言うところの京の田舎に、或いは人知れず預けるのです。それは決して非情な行為ではありませんでした。万事にかけてその子を思えばこその切ない親の仕業ではありましたから。思えば言い訳のつかない問題をすら助け合う、そんな仕組みです。出来ないことは簡単に切る切れるという恐ろしい世の中とは人間の心底が違います。

 さて里子とは実の親から離れて里の子にすること、里の解釈の一つに広辞苑にも「養育料をそえて子供を預ける他家」とあります。京都の場合、嵯峨、花園、岩倉、松ヶ崎、いわゆる「京に田舎あり」と言われたところなどが主です。明治時代にはまだ、その証文がありました。それは「小児お預り証書」といいます。「本年何月何日ヨリ何年何月何日マデ飯料何円として預かり申候 病気等差起リ候節は早速御届ヶ申候」などです。金銭のことのみのようですが、そこにあるお互いの心を読まねばならないと思います。

 昔、藤原公任(きんとう)と言う人の子供がたいへん身体が弱くておりましたところ、初め右京区の花園に預けましたが、丈夫にはならず、こんどは、左京区の岩倉に預けましたところ元気になったといいます。以来京都での育ちの悪い子供を里子に出す風習ができたと言われております。思い深く味わいたい伝え話です。谷崎潤一郎の『夢の浮橋』にも里子のことが出てきます。里子に出されたのは、文中の「私」乙訓糺(おとくにただす)にとっては二度目の母が産んだ弟、武でしたが、京都におけるその言葉、里子の持つ意味の響きがわからないでは読めない小説、といった気さへいたします。なぜと詰め寄る糺に母親は「かう云ふやうにしたんはお父さんの考えでもあるし、あての考えでもあるのえ。まあ、このことは又ゆっくり話しまへう」というのでありました。


われわれのお雛祭りの仕来りは

 「京の雛祭りは、四月三日でした。桃の花が咲いて、菜の花はもう黄色の絨毯を敷きつめています。ちょうど、卯月の空の下、小学校は春休みの真最中で、中庭の枝垂れ桜も赤味を目立たせてふくらみ出している候でありました。」とは、一昔前、わたしも書かせていただいていました雑誌に、武者小路千家家元夫人千澄子さんがお書きになっておりました言葉です。書き出しのきっぱりとした「京の雛祭りは、四月三日でした。」という簡潔な力強さが好きで、今また一度も二度もページを繰ってしまうのでした。

 わたくしどもはむつかしいことは知りません。子供のときはとにかく、大人になっても、その日のことは暦も繰らずそう決め込んでおりました。桃の花はちゃんとそのときには開いておりました。菜の花もそうでした。言われるがままの疑い知らず、今も幸せなわたしたちです。京都だからこうこうとも考えず、そういうものだとしか思わない幸せ者でございます。

 それから、こんなことを言ったら叱られるかも知りませんけれど、これは、わたし個人のことですが、年毎に男雛女雛さんをお出しするとき、その位置を間違わぬようにするために、頭の中に、何よりもお風呂屋さんの入り口を思い描くのです。そのころのお風呂屋さんの男湯の入り口は向かって右、女湯の入り口は左にありました。現在は知りません。なおわたしが赤ん坊のときから連れてもらっておりましたお風呂屋さんは木屋町三条上がる、一筋目西入る恵比寿町にあった「関東湯(かんとゆ)」でした。今またその記憶術を子孫に伝えようとしているわたしです。

 ところで、ほんとうは、内裏さんという言葉も知らず使わず、わたしどもは、お隣のおばさんも、男雛を「天神さん」、女雛を「お姫さん」と親しんで呼んでいました。こういう呼び方もどこかには謂れ故事来歴があるかも知れません。ところでもうひとつ、五十年前に亡くなった祖母が申していましたことに、世間では倒産などがあったときには、不急不用のものから手放します、まず、その運命を背負っているのはお雛さん。思えばいま我が家に嘉永年間から伝わるお雛さんは、出所不明、ひょっとしたら、そのような運命を背負っていなさるかも知れない、よくよく供養してその因縁を絶ち切ってあげんとあきまへんと、祖母はお雛さんに向いてお経をあげておりました。わたしも、このごろようやく祖母がしていました姿勢にも慣れ、このことも子孫に伝えなければと考えております。


京女立つて垂れるがすこしきず

 これは仕来りというものではないでしょうが、つい四、五十年前までそういう習慣もあったものということを知っておくのも悪くありません。京といえば、京女といえば〜〜というイメージが定着しており閉口する昨今ではありますから。わたしも京女です、人のことだからいうているのではありません、能楽を好み、行儀作法のやかましかったわたしの祖母のそんな姿も見たことがあります。小さいわたしが真似しましたが上手にできませんでした。

 さて表題の言葉は今から百年ほどまえに詠まれた句です。ご存知滝沢馬琴は「京の家々厠(かわや)の前に小便担桶ありて、女もそれへ小便する。故に、富家の女房も小便は悉く立て居てするなり。但良賎とも紙を用ず。妓女ばかりふところ紙もちて便所へゆくなり。月々六斎ほどづヽこの小便桶くみに来るなり。或は供二三人つれたる女。道はたの小便たごへ立ながら尻の方をむけて小便するに恥るいろなく笑ふ人なし。」と残しています。

 ところで、ここでいま一句。「小便が野菜に化ける京の町」、こういわれると、或いは皆さんも少しづつ推察いただけることもありましょう。かの美味なる京野菜にも関わる話でございます。『皇都午睡』に見える言葉には「扨(さて)も小便を寵愛するは京の事也。矢(八)瀬小原など遠方へ持かへるは、樽詰にし、日々菜でせう、蕪でせうなどと、野菜の物と替て、値切小切する悪口は、十返舎が膝栗毛に書たれば、世間に名高し。」と見えます。だからと申しまして、京女のイメージにあらざるそんな姿ですることはないとはとお嘆きにならないでくださいませ。わたくしどもは、京女とはかくかく、こうこう、など思ったことはなく、きわめて自然に生きてまいりました。いうなればそんなところが京女とお名指しいただけるとむしろ嬉しく、谷崎潤一郎はそのことが嫌で、京都を去ったとの噂も聞きまして、彼もやっぱり東男と思ったことでございました。 


内祝

 京都のと、いいましても、よそ様がどうでありますかわたしは存じません。ただ生まれ育って体験したままに記させていただくということです。さて一月は、内祝(うちいわい)につき思いつきますままに。

 内祝にもいくつかの解釈があります。その一つは、身内など親しいものだけでする祝いごと、それを表わす面白い言葉に、歌舞伎・好色伝授の中に「手付けに銀五十匁受け取った。内祝もせうと思うて、九十三文が酒買うて来た」などがあります。罪のない楽しいことです。内祝の本義かも知れません。次に、身内の祝い事を記念して、他所さんに贈り物をすること、またはその贈り物そのものをいうなど。その場合には前もっていただいたお祝い、或いは病気見舞いに対する返礼(本復祝い)としての品をも指すことがあります。そのあたりが通常の生活習慣としての内祝でしょうが。

 しかし、それだけでは、変哲もない仕来りに過ぎません。内祝といいますものは、内々のことながら、他所さんにも贈り物をさせていただいて、内々ゆえの抑えがたい喜びを、みずからの声に祝わせていただけるという、まこと、人の心に素直な実のこもったうれしい仕来りです。
 思いみますと、そこには、祇園祭の町衆のように、古い世からかわらない、共同体の姿が見えてまいります。人は誰も一人ではない、そんな気持さへします。ともに喜び、ともに祝うということでございましょうか。そこに京都が見えます。京都はもっさりしたのが取り柄の町です。それは京都の情を指す言葉です。ところで、内祝には大方がお菓子を用います。それもぽったりした薯蕷の皮のおまんが主となります。二つにも、四つにも割りませんと口に入らぬような大きいもの、時には、やや小さい目の白い肌にぽっちり紅のお印をつけて、女の子のお祝いをしたりすることもあります。


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