第十三回 洛北その二 詩仙堂 八瀬 三千院 寂光院 大原の笹など
第十二回 洛北その一 比叡山 糺の森 神光院
第十一回 洛南その二 醍醐寺 宇治川 宇治の茶畑
第十回 洛南その一 東寺 三十三間堂 醍醐寺
第九回 洛西その三 高雄 神護寺 保津川 牛祭
第八回 洛西その二 仁和寺 龍安寺 大沢の池 嵯峨野
第七回 洛西その一 嵐山 常照皇寺 天龍寺
第六回 洛中その三 時代祭 西陣・祇園 南座
第五回 洛中その二 六角堂 加茂川 祇園祭
第四回 洛中その一 壬生狂言 都をどり 御所
第三回 洛東その三 真如堂 永観堂 法然院 知恩院
第二回 洛東その二 清水寺 平安神宮 哲学の道 大文字山
第一回 洛東その一 吉田神社 黒谷の塔 円山の桜 中村楼

第十三回 洛北その二  詩仙堂 八瀬 三千院 寂光院 大原の笹など
*詩仙堂
 

 
 出来る限り京都は歩いてください。詩仙堂へは北白川上終町(かみはてちょう)、字の如くにこのあたり京の終わり、果てであったあたりから山沿いに歩くことおすすめします。道に沿うここは一乗寺という村、「京に田舎あり」といわれた言葉を実感します。
掲載の佐太郎の二首は、「詩仙堂山茶花一樹千苞」の三首からのもので、初冬、美しくととのえられた庭の砂目に、絶え間なく花が散りつぐさま、特にその夕べの景色は、いまさらに石川丈山が老年の三十年をここに過ごしたわけが偲ばれます。

 
山茶花はゆうべの雲にしろたへの花まぎれんとして咲きゐたり
山茶花の老木はくれぬ散れる花めぐりの砂の白きゆふぐれ   
佐藤佐太郎

*八瀬
 

 出町柳から叡山電車に乗って終点が八瀬。都会でありながら、市中から30分もかからずに清らかな水や風の光りに出会えるのも京都の特徴の一つです。八瀬からは比叡山へ登るケーブルカーが出ています。ゴットンゴットンと登るレールの左右の岩肌にも光る水が見えます。

 
八瀬の里に朝はやく来て山かげの細滝みづの光身にしむ   
山下秀之助

*三千院(往生極楽院)
 

 八瀬からは歩いてもいい、三千院の庭の往生極楽院に佇んでいますと、何も知らないのに、平安貴族たちの弥陀信仰というものがわかるような気になってきます。何千遍、何万遍、ひたすらに念仏を唱えたかの姿が見えてきます。乗り物に乗らないで歩く、そのような単純なことが、昔の人の心に触れる一番の近道です。

 
三千院杉こがくれの堂の扉(と)にゆうべのひかりしばしいざよふ
太田水穂
寺庭のひかげのかづら冷たきに屈(かが)まりて手をふれにけるかも
川田 順
小坊主の後(あと)より入りつ往生極楽院浄(きよ)らにつめたみ虔(つつし)ましもよ
木下利玄

*寂光院
 

 三千院から西へ春も夏も秋も冬もいい野の道です。大正十一年の秋から冬にかけ、篤二郎はほとんど旅のうちに過ごしました。記載の歌は「大原行」と題する一連の中で、建礼門院を歌っています。歌の中に見る「五つの重」は当時の女房装束の一つです。
利玄の歌は大正四年の覚え書きをもとにして、大正九年に「心の花」に発表したものですが、頬の赤かった尼はおそらく先代の門跡の幼かった頃の様子と推察されます。

 
黒髪を憂(う)しと剃らして紅(くれなゐ)の五つの重(かさね)ぬぎたまひけり
尾山篤二郎
庵室の障子あかるき午後にして茶を汲む尼の頬(ほ)の紅(あか)きこと
木下利玄

*大原の笹など
 

 仏教伝来とほぼ同じくして入ってきた粽(ちまき)は、手間ひまかけたものを神に供えて、厄を逃れたいと祈るためのお供物。笹を使う製法は古来変ることなく、禁裏にも献上した習慣は今も残っています。その笹は大原で多くが採られていました。
なお、大原の帰路を歌った会津八一の作品は、ひらかな書きですが、字をたどってゆっくり、読んでください。バスを待ちながら茶店で詠まれた歌はなかなか面白いと思います。柿を食べても、かきもちを食べてもバスはなかなか来ないと歌う様子は愉快です。

 
粽(ちまき)巻く笹のひろ葉を大原のふりにし郷(さと)は秋の日に干す
長塚 節
まかりきてちやみせにたてど門院(もんいん)をかたりしこゑのみみにこもれる
おほはらのちやみせにたちてかきはめどかきもちはめどバスはみえこず     
会津八一


第十二回 洛北その一  比叡山 糺の森 神光院
*比叡山
 

 
 比叡山は近江と京都にまたがる山です。延暦寺は、琵琶湖に向かって建てられ、大津市坂本町に所在しますが、京都から眺めますと、丑寅、北東の鬼門を守護する山として朝夕に拝まれて来ました。
 千日回峰行の阿闍梨(あじゃり)さんが京都へ下りて来られるときは、大人たちに混じって子供たちも家の前に並んで、頭を撫でてもらう順番を待ちます。すたすたすた、白い脚絆の足元が子供の視線の前に一瞬とまって、去っていくのでした。ドライブウエイだけが比叡山の登り道ではありません。自動車での行き帰りに片側の谷間の木隠れの小道に注目してください。そして折には歩いて登っていただきたいものです。比叡山は結界の山、修道の山です。

 
山の上に世をかなしみて下りて来ぬ僧の多くが山にはてけむ
中村憲吉
十年あまり放浪の旅ゆかへりて眺むればうつくしきかな叡山の色
河上 肇
ただ暗し祇園精舎をかたどりし内陣のかた灯のみほのかに
中原綾子

*糺の森
 

 糺の森は左京区下鴨の森、下賀茂神社が鎮座する森を指します。葵祭は賀茂祭ともいわれ、毎年五月十五日に行われるここ下賀茂神社と、北区の上賀茂神社両社の例祭です。祭に供奉する人が、その冠に葵の葉を飾るところからこの名があります。葵はアフイ(向日)のなまったもので、太陽を仰ぐことから名づけられたといわれ、両社の神を崇敬したことに因んで用いられたものです。
 祭の当日、御所を出た行列は、糺の森で神事のあとゆっくりと昼食となります。森の中はまばゆいばかりの若葉の色と、強烈な新芽の匂いに満ちています。京都の緑はこの頃から一段と濃くなります。

 
ひろ前の神事のさなか垣外(かきと)なる駒(こま)いななけり厳(いつ)かしきかも
温(ぬる)み風揺れざわめける高き枝に榎(え)の木の花の咲きにてあらずや   
木下利玄

*神光院
 

 神光院は北区西賀茂神光院町にあります。大田垣蓮月は慶応元年ここに落ち着き十年を過ごしました。蓮月は名を誠(のぶ)といい、知恩院寺侍大田垣氏の娘といわれましたが、二度の結婚に一度は離別、一度は死別、愛児たちともみな死別し、そのために出家、歌と焼物つくりに慰みを得つつも、独自の芸術の世界を開いた人でありました。神光院はその終(つい)の棲家となったところ、お墓は院の西方、小谷墓地にあります。

 
障子さしてあるじはあらず蓮月が住みしままなるいほりの若葉
聞きなれし声はこれかとふり仰ぐ松のこずゑに昼の風あり
土岐善麿
 

第十一回 洛南その二  醍醐寺 宇治川 宇治の茶畑
*醍醐寺
 

 
 醍醐寺の山門をくぐり、しばらく歩きますと、五重の塔が見えてきます。この塔は朱雀天皇の御願により工を起こし、十五年の歳月を経て、村上天皇の天暦六年(952)に竣工、醍醐創建当時の唯一の遺稿であり、また京都市現存最古の木造建築物です。太閤秀吉も醍醐の花見のときは、おそらくこのあたりを逍遥したことでありましょう。佐藤佐太郎が訪れたのは昭和四十五年四月十七日、折から雨となりました。

 
垂る枝のうごくともなく降る雨に散るべき花はおもひきり散る
にはかなる雨降りいでて散るさくらみるみるひまに下土白し
佐藤佐太郎

*宇治川
 

 宇治川はいつ眺めても滔々と豊かに流れています。よく見ますとなめらかに流れているところと、湧き出るように水が巻く恐ろしげなところがあります。そこにも白い鷺は舞い降り、瞬間にきらめくものをくわえて上がります。この歌は宇治川左岸、橋寺の近くの暮らしの中から詠まれたものです。作者の母君は、柳原白蓮さんです。

 
いささかの庵(いほり)結ばん宇治川のほとりの松を撫でつつもとな
愛(う)い小樽酒のいでくを受けをれば窺(うかが)ひ足に妹(いも)の近づく
北小路功光

*宇治の茶畑
 

 三条京阪から宇治行きの電車で木幡あたりまで来ると両側に茶畑がひろがります。茶摘唄も流れる季節はつい、うきうきと足取りも軽く、歩くのにも快いことです。宇治の茶畑は、すでに、室町時代から開かれ、産出されたお茶は、将軍、大名のもとにも届けられていたのでした。江戸末期から明治初期を生きた蓮月尼は京都あたりから、よき風に吹かれゆるやかに辿っていったことであったでしょうと、その姿が偲ばれます。

 
かをりよきうぢの新茶にめで初めし人の昔ぞ汲みてしらるる
大田垣蓮月
 

第十回 洛南その一  高雄 神護寺 保津川 牛祭
*東寺
 

 
 桓武天皇が都を定められてから、千有余年、京都は幾度か戦乱の巷となって、もとの平安京の面影はほとんどといってよいほどにとどめていませんが、東寺だけは初めからのままの位置に建ち、改築が加えられたといえ、昔を今に伝えてそこに建っています。五重の塔はその東南の築地内、春の霞、秋の夕もやが町々の屋根を包むときも、ひときわ高く抜きん出て、京都に出入りの人々の目をひきつけています。

 
朝まだき東寺の鐘もちる花も夢とうつつの境をぞゆく
けふよりはまた逢ふひまの別れぞというて暮らして何時までまたん
柳原白蓮

*三十三間堂
 

 全焼の憂き目に出会っているから確かめる術はありませんと、寺側はいわれますが、観音を信仰する後白河法皇の発願によって、平清盛が建立したときの三十三間堂(蓮華王院)の棟木は柳の木でありました。伝えるところによりますと、その柳は熊野山中の百メートルを越える老樹で、法王の前世の髑髏をつらぬいて繁っていましたから、風が吹いて揺れるたびに法王は頭が痛くてたまらなかったのでした。その話によりますと法王の前世は行者でありました。三十三間堂ではいまなお、楊枝御加持(やなぎのおかじ)という祈祷を、一月十五日に行っております。これは頭痛に効き、記憶力の増進にも役立つといわれています。

 
我がまへの夕谷川はいく世かも僧の渡りて山にかへりけむ
会津八一

*醍醐寺
 

 山門をくぐると濃い緑に覆われた山々がすぐに迫ります。五重の塔も山門からすぐのところに見えます。その五重塔は平安時代の名残をしっかりとどめています。塔の朱色とあたりの木々の緑が見事な調和をしめしているのを見ることができます。しかし、醍醐といえば太閤秀吉の花見ですが、秀吉がここに来たのは慶長三年(1598)、応仁の大乱によってこのあたりも荒れ果てていたといいます。秀吉はただちにこれを復旧、しかしながらその完全な復旧を見ずして死んだのでした。今に見る庭の相貌はいかにも桃山時代の姿を伝えて、豪放華麗ではあります。

 
垂る枝のうごくともなく降る雨に散るべき花はおもひきり散る
にはかなる雨ふりいでて散るさくらみるみるひまに下土白し
佐藤佐太郎
 

第九回 洛西その三  高雄 神護寺 保津川 牛祭
*高雄
 

 
 高雄(たかお)、槙尾(まきのお) 栂尾(とがのお)の渓谷は深くて、秋は早くから冷たさが身にしみます。この冷たさと折々の時雨が、紅葉の色をひとしお深いものにするのです。歌人長塚節は明治三十八年十月一日、嵯峨を経て、憲吉は大正十三年紅葉のころを神議寺にも詣でています。

 
栂尾の槭(もみじ)は青きあきかぜに清滝川の瀬をさむみかも
長塚 節
高雄山にわが来てさむき片しぐれ唐傘買ひて紅葉のしたを
中村憲吉

*神護寺
 

 高雄山神護寺の石段はけわしい石段で、息を切らせて上ってもなかなかに行き着きません。この寺は文覚(もんがく)上人が再興したお寺です。文覚は遠藤という武士でありました。しかしながら、人の妻であるところの袈裟御前に恋をし、それ故の咎に自分を恥じ、出家した人なのでした。そのお墓という五輪の石塔が山の頂上にあります。そこまでにたどり着けば憲吉の詠んだ歌の景色が一望できます。

 
高雄寺の峰のうらべは谷ひろし八十山(やそやま)のはての愛宕にむかふ
我がまへの夕谷川はいく世かも僧の渡りて山にかへりけむ
中村憲吉

*保津川
 

 保津川は大堰川の亀岡と京都の間、保津峡の部分のみの呼び名です。折々にかよう保津川下りの船が見えます。

絶壁に抱かれたように流れの淀む深い淵が二、三ヶ所あり、左岸の千鳥ヶ淵は、往生院へ滝口入道を訪ねた横笛が、思いがかなわず入水したところと伝えます。

一首目の「はしきやし」は、いとおしいとも、転じて「ああ」とも嘆息する意味です。

 
美しき水のながれとはしきやし黒髪の子がつくりしゆめぞ
女たち三人の旅のさがなさよ中の一人はいつもさびしう
九條武子

*牛祭
 

 牛祭は十月十二日の太秦広隆寺の異色ある夜祭です。仮面をかぶった主神が牛にまたがって、ゆっくり練り歩きます。間のびのした祭文がまた長々しく、昔は祭りが果てるのは夜中を過ぎたといいます。太子前の電車は明治四十年の開通、夜の露けさは利玄の好むところでありました。

 
おくれなば尼にならんといふ人と嵯峨野のむしをきくゆふべかな
大田垣蓮月
太子前に電車を下りて太秦の夜寒をゆけば虫すだくなり
木下利玄

第八回 洛西その二  仁和寺 龍安寺 大沢の池 嵯峨野
*仁和寺
 

 
 仁和寺は仁和二年(886)光孝天皇の勅願によって、創建された寺。法親王が住持をつとめた寺のため、「御室」とよばれています。『徒然草』には鼎法師などユーモラスに描かれている僧がこの寺から登場することも楽しいことです。
 牧水は明治40年6月帰省の途次、京都を見物のあとここに立ち寄っています。

 
春来れば僧のこころも浮かるるや御室の法師今日もかへらぬ
吉井 勇
松の実や楓の花や仁和寺の夏なほ若し山ほととぎす
若山牧水

*龍安寺
 

 ここは、もとは円融天皇の御願寺があったところで、足利氏の官僚、細川勝元が建立した大雲山と号する臨済宗妙心寺派十刹のひとつです。京都の観光には花や紅葉をはずして、それも雨の日とか夕暮れがいいともいわれますが、そのような趣のときには、ここの枯山水の庭を訪れるのが一番のような気がします。

 
十まりの石一つ一つ布陣(おきど)よく己(し)がありどにぞ置かれてありける
春の雨砂庭にしみてひそやかなりぬれ光る石に吾がむかひをる
佐々木信綱

*大沢の池
 

 大沢の池は大覚寺の境内東にあり、仙洞嵯峨院の旧苑池。中国の洞庭湖になぞらえて、一名、庭湖ともいいます、篤二郎は大正11年11月大沢の池を訪れています。北岸の護摩堂のかたわらには一群の石仏があります。その温顔は必ずや忘れられないものになるようであります。

 
大沢の池の塘(つつみ)の薄紅葉照りいづるほどをきたりけるかも
こまかに松の葉散り浮き昼さへも小波(さざなみ)さむき大沢の池
尾山篤二郎

*嵯峨野
 

 嵯峨野は東は太秦の西方より西は小倉山麓まで、北は上嵯峨の山麓より大井川を境とした地域を指します。その自然の姿を失わないで欲しいとは誰しもが願うところです。谷崎は松子夫人とよくこの野を散歩しました。蓮月の歌には「狐の化けたるかに」という詞書がついています。

 
おくれなば尼にならんといふ人と嵯峨野のむしをきくゆふべかな
谷崎潤一郎
人はかるさが野の原の夕まぐれおのが尾花や花と見すらん
大田垣蓮月

第七回 洛西その一  嵐山 常照皇寺 天龍寺
*嵐山
 

 
 ここでは三首の柳原白蓮の歌を紹介する。

 白蓮は、明治18年(1885)誕生、生後七日目に生母奥津りょうのもとより、引き離され、華族柳原家に入籍名はY(あき)子、白蓮は筆名。明治31年華族女学校入学、同33年北小路資武と結婚、同34年功光を出産。破婚。同44年九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚、その頃より『心の花』に短歌作品を発表。大正4年第一歌集『踏絵』刊行、その後詩集『几帳のかげ』、歌集『幻の華』、戯曲『指鬘外道』を発表する。大正9年『解放』編集部の記者宮崎龍介と会う。同10年10月20日家出決行、白蓮36歳・龍介29歳。同12年龍介と結婚。その後病身の龍介に代わり文筆活動で一家を支え、一男一女を育て、戦後は平和運動に参加、のち世界連邦婦人部の中心となる。昭和42年(1967)没。

 
散る花よ無情よ恋の住む里よかすめる空に桜あめ降る
忘れては夢よりもなほしみじみと枕上くるもののけのかげ
我れ死なば詩(うた)の御神がゆりかごの花のしとねに臥さしめたまへ
柳原白蓮

*常照皇寺
 

 周山街道からいくか、貴船を越えるか、この寺は数奇な運命にもてあそばれた光厳法王がこもった寺。春、御車返しの桜は大輪の花を咲かせる。佐太郎は昭和43年4月13日に訪れている。

 
山のまの常照皇寺しづかにて桜なだれ咲く花のあかるさ
佐藤佐太郎

*天龍寺
 

 天龍寺というところは、全体の大きさが第一印象となる。放生池の蓮の葉もほんとうに大きい。方丈の庭には龍門がある。臥龍、立龍、座龍、数知れない岩が沈む水面は小倉山から吹いてくる風に波たちやすい。

 
天龍寺の屋根の瓦のうへをゆく秋雲の鈍く光りたりけり            
金子薫園

第六回 洛中その三  時代祭 西陣・祇園 南座
*時代祭
 

 
 時代祭は葵祭、祇園祭とともに、京都の三大祭として十月二十二日に行われます。平安奠都千百年記念祭に平安神宮が創建されたとき、記念事業の一つとして行われたのが始まりでした。

 時代祭が近くなると京都の家々の庭先にはこおろぎの声が一段と高くなります。そうなるとああ、時代祭やなあと季節の移り変わりを深くに感じてしまうのです。でもそんな感傷を吹き飛ばすように、先頭を行くはあの勇ましい山国隊の太鼓の音が鳴り響いてきますと、思わず心が浮き立ち、子供ら「ピーヒャラ、ドン、ドン、ドン」と、口真似をしはじめるのでありました。

 
いさましき山国隊の太鼓の音街にひびかせ行列は来ぬ
大将も名もなき丁(よぼろ)も秋の日の舗道に同じ影落しゆく
吉井  勇

*西陣・祇園
 

 植松寿樹の歌は昭和二十年代のものですが、西陣あたりの小家の趣が実のよく語られています。くぐり戸を入りし小暗さ、というのは頭を下げねばはいれないように、くぐってはいる戸口のことで、京都の古い家の内部は暗いので、しばらくは目が慣れません、そのことを語っています。

 祇園ちご餅は祇園祭の稚児社参の日の餅を模した名物、それを舞子が食べている様子を語っています。珠数屋町は下京区の東西の道で、東本願寺の別邸、枳殻邸をはさんで上珠数屋町と下珠数屋町に分かれています。

 
くぐり戸を入りし小暗さ慣るる間に機(はた)を起(た)ちくる君が白き顔
植松寿樹
福を招く祇園ちご餅食(た)うぶるよわが子の如き舞子とあれば   
吉井 勇
しら珠の数珠屋町とはいづかたぞ中京こえて人に問はまし      
山川登美子

*南座
 

 南座に招きがあがりますと、いままでそんなに思っていなかったのに、俄かに年の瀬を感じてせわしなくなるのが京都の風習です。でも、いざ顔見世を観にゆくときとなりますと、誰も彼もが、一張羅(いっちょうら)、一番上等の着物をたんすの引き出しから出してきて、着替えていくのが京都の女でありました。与謝野晶子の歌の延次郎はのちの二代目実川延若、利玄の歌は幕間の気分の機微を捉えたものです。

 
京の橋千鳥とぶなり延次郎のうすき茜ののぼりの上に            
与謝野晶子
引幕に対(むか)へる心いとまあり余所見(よそみ)をしつつ茶をのみてゐるも
木下利玄

第五回 洛中その二  六角堂 加茂川 祇園祭
*六角堂
 

 六角堂は西国十八番札所です。

ここには昔々、大きな池があって、聖徳太子が水浴びをなさったそうです。街中ですのに、鳩が集まって、地に下りたり、何に驚いたのか一度に空に飛び上がったりしています。いつ行って見ても、くくう、くくうと鳴く声がしています。

昭和四十四年春、佐藤佐太郎は還暦によせて、「無償の短歌につながれて交わりを結び、生年を同じくする」同行三人と西国諸寺を巡拝しました。そのときの歌です。

 
あまた棲む鳩の喉声うつつなき六角堂の寺庭に立つ
佐藤佐太郎

*加茂川
 

 最近は、加茂川で産湯をつかったような京美人、とはどなたもそんないい方をされなくなりました。そんな言葉すら知らない人が多くなったようです。加茂川はそんな川になったということでしょうか。でも、京都に生まれたわたしたちは、たとえ一日、京都を離れていても、帰って来ると加茂川を見てほっとします。

 友禅に命を与えたのも実は加茂川の水、水量が豊かで鉄分が少なく、色が鮮やかに上がったからです。やはり自然が一番いいはずです。

 ところで京都の市電はすでにありませんが、上田三四二は、その市電に乗って京大病院の研究室に通いました。どちらもふたたび見られぬ光景となりました。幕末の歌人蓮月は加茂川で野菜を洗っていたといいます。歌というものは何よりの証拠となりますね。

 
日傘さしてわかき娘も並び見る布をさらす日のあつき加茂川
金子薫園
水上ははろばろと若葉こもるみゆ加茂川を電車こゆるときのま
上田三四二
おりたちて朝菜あらへば加茂川のきしのやなぎに鶯のなく
大田垣蓮月

*祇園祭
 

 祇園祭はいうまでもなく、八坂神社の祭神、牛頭天王に夏の疫病の災害の無事を祈る祭です。御輿は加茂川の水で洗い清めます。勢いよく汲み上げられた水はしぶきをあげて飛び散りますが、そのしぶきに濡れると無病息災といわれています。

 宵山には、こぞって電気の灯を消しまひょ、と町内が申し合わせて、ろうそくの灯にゆかしく過ごすというところもあると聞きます。蓮月の歌は長刀鉾を歌っています。

 
京言葉ふさはしこよひ宵山の祇園囃子のながれくる町
九条武子
そのかみの神の御稜(みい)威(つ)のいちじるき光りをいまもみか月のかげ
大田垣蓮月

第四回 洛中その一  壬生狂言 都をどり 御所
*壬生狂言
 

 鎌倉時代に円覚上人が創始した融通念仏を基礎とした無言劇が今日の壬生狂言。四月の末に行われるが、演目には「炮(ほう)碌(らく)割(わり)」「桶取」「餓鬼(がき)角力(すもう)」「花折」「大黒狩」などいろいろある。大方は地蔵信仰を主題としている。日がな一日単調な鉦太鼓に合わせて行われる無言劇である。

 観客の中には、小柄な尼、蓮月の姿も見られるのではと、つい思ってしまう。そして吉井勇の歌もついつい口をついて出る。

 
いにしへの手ぶりをかしきすさびかなこれも都の花のひともと
大田垣蓮月
鉦(かね)の音おなじ調べをくりかへし壬生寺の春も極まりにけり
吉井 勇

*都をどり
 

 毎年四月一日から一ヶ月間、祇園の歌舞練場で催されるものに、都をどりがある。つなぎ団子の紅ちょうちんや燃え盛るかがり火に心をときめかせながら花見小路のあたりを歩く。

終わって、歌舞練場を抜けて前の花見小路を八坂へ折れると、ものしずかな裏通り。忘れられたように崇徳天皇廟がぽつんとある。下駄の音にふりむくと、舞台に出て踊っていた舞子たちが通り過ぎてゆく。

 
われはただ都踊りはええといふ声のなかなる声をもとむる
吉井 勇
清水へ祇園をよぎる桜月夜こよいよひ逢ふ人みなうつくしき
与謝野晶子

*御所
 

 わたしたち京都のものは、禁中と外まわりの御苑もいっしょにして御所という。

 東京へ遷都した天皇さんのお還りを待ったことはさすが昔語りとなるが、事実、われわれの先祖は京都へ、帰って来はるもんやと思ひこんでいたのだ。寒い日は、天皇さん、風邪ひいてはらへんやろかと、心配したという。中村憲吉は大正十三年、尾上柴舟は大正七年に訪れて詠んでいる。

 
玉しきの砂によろしき御溝(みかは)みづ大内(おほうち)の庭をしづかになせり
中村 憲吉
うち仰ぐ御殿の奥のをぐらきにあやに光るは高御座(たかみくら)かも
尾上柴舟

第三回 洛東その三  真如堂  永観堂  法然院  知恩院
*真如堂
 

 東山三十六峰から白川通をはさんで、西にこんもりとした山がある。紫雲山である。そこにあるひとつのお寺が真如堂。西へ吉田神社を抜けると京都大学。尾山篤二郎は大正十三年十一月二十四日京都大学へその道をたどった。紅葉のころであった。

 
境内をゆけば濡れいる石畳今朝まだ掃かぬ落葉つもれり
大寺の紅葉はすでに散りたれどのこれるものは霧にぬれたり
尾山篤二郎

*永観堂
 

 わたしたち京都のものは、そのあたりのそぞろ歩きに疲れると、「ああ真如堂、飯、黒谷さん、ここらで一服、永観堂、そんなうまいこと南禅寺」とうたったものだ。秋の紅葉は日のあたるところより、山陰の木漏れ日の陰がよい。晶子の思い出の歌はそんなところがよく似合う。三人とは山川登美子と晶子と鉄幹であった。

 
秋を三人(みたり)椎の実なげし鯉やいづこ池の朝かぜ手と手つめたき
与謝野晶子

*法然院
 

 藁を葺いた門をくぐったところに砂盛りがある。白砂壇という。その間を通ると清められるという。花の模様のときもあり、水の模様のときもある。

 
ひややけく庭にもりたる白沙(しらすな)の松の落葉に秋雨ぞ降る
長塚 節
焚きたきし幾代の香か御堂内(みだうぬち)つめたくしづみて物に沁みたる
木下利玄
節は明治三十八年九月二十日雨の法然院を訪れている。利玄は大正六年暮れ移り住んだ兵庫県住吉村からの小旅行だった。

*知恩院
 

 知恩院は除夜の鐘で有名。吉井勇が京都に定住したのは昭和十一年。そのときは北白川、のち、銀閣寺前にも移るが、そのあたりからは、こっちは法然院、あれは黒谷さん、今鳴っているのは知恩院さんと、漆黒の闇を流れる除夜の鐘がよく聞こえたはず。

 
年ごとに鬢(びん)の白さも加はりぬ京のわび居もやがてふさはむ
ただならぬ年はわび居の古褞袍(どてら)大あぐらゐて迎ふるもよし
吉井 勇

第二回 洛東その二  清水寺 平安神宮 哲学の道 大文字山
*清水寺
 

 清水寺の観音様は女の苦しみを救ってくださる仏さまで、昔も今も月参りを欠かさない女たちでその坂は賑わっております。

 川田順の歌は、『裸身』と題する歌集よりの一首です。順は六十六歳のときに人妻に恋をし世間の批判の的にさらされました。のち結婚しますが、その苦しみのさなかに二人で清水寺へお参りしたときの歌です。

 山下陸奥は信心深い二度目の妻をともなってのお参りでした。

 
今宵この清水寺のうてなにはわれらばかりを月ぞ照らせる
川田 順
み堂より出で来し妻は月光のさむく照らせる草履をはきぬ
山下陸奥

*平安神宮
 

 谷崎潤一郎の『細雪』上巻の私家版上梓は昭和19年7月。谷崎は同じ年の10月2日、平安神宮を訪れています。

しだれ桜が好きだった彼は、生前、左京区鹿ケ谷法然院の墓石のかたわらにその木を植えました。いまは背後の山の木にさえぎられながらも毎年、新しい紅い花を咲かせています。

2首目おとどい(・・・・)は姉妹の意です。

 
くれなゐの雨としだれしその春の糸桜.かや夢のあとかや
おとどいが袖うちかけしおばしまに緋鯉真鯉等けふもつどひ来
谷崎潤一郎

*哲学の道
 

 哲学の道の名は哲学者西田幾多郎が散策したところからついた道の名です。幾多郎の歌は大正13年の作。高折妙子はその道に桜を植えた日本画家橋本関雪の長女です。桜は現在、関雪桜の名があります。

 川田順は恋人の家への橋、疏水にかかる桜橋を歌っています。二人して京都を出たあとは、言葉通りの竹の柱に茅の屋根の生活でありましたが、しかし二人は楽しそうであったといいます。

 
世をはなれ人を忘れて我はただ己が心の奥底にすむ
西田幾多郎
幾億の花咲き沈む暁闇の桜並木のただに真白し
高折妙子
板橋をあまた架けたる小川にて君が家へは五つ目の橋
川田 順

*大文字
 

 五山の送り火は、大文字、妙法、舟形、左大文字、鳥居と京都の山々を東から北、西へとかけめぐってともります。次々に目で追って、場所をかえて眺めることは、いそがしくも楽しいことです。

 尾上柴舟の先の歌は昭和2年、後の歌は昭和25年の作です。

 
燃えそめし火さき火さきのみな伸びて火の大文字となりにけらずや
つぎつぎにともる文字の火形の火これ見かれ見る眼の忙がしさ
尾上柴舟
第一回 洛東その一  吉田神社 黒谷の塔 円山の桜 中村楼

 京都は、平安の昔から歌の中に詠まれ続けて来ましたが、今回の紹介には、主に近代の歌人たちによって詠まれた京都の歌を集めてみました。

*吉田神社  作者 吉井勇
 

吉井は東京高輪の伯爵家に生まれた天性の歌人。

歌に詠まれる吉田神社の追儺(ついな)は、上古、禁中で行われたその姿をしのぶことが出来ます。歌の中の慶雲(けいうん)は八世紀初頭の年号です。

 
慶雲の遠昔(とほむかし)よりつたはりし行事かしこし鬼やらひせむ
何ごとも忘れはてむと節分の夜のまつり火に古護符(ふるごふ)を焼く

*黒谷の塔  作者 山川登美子、島木赤彦
 

与謝野鉄幹との恋に破れた登美子は故郷小浜に帰り、結核の療養につとめたが、明治三十九年、二十八歳のとき京都中立売の姉の嫁ぎ先に身を寄せました。そのときの歌。

赤彦は大正十一年、黒谷瑞泉院に十日間逗留しておりました。

 
わが死なむ日にも斯く降れ京の山しら雪たかし黒谷の塔
登美子
この谷の松の落葉に霜白し木魚音するあかときにして
赤彦

*円山の桜  作者 柳原白蓮
 

白蓮は東京の伯爵家に生まれました。北小路資武と離婚後、九州の炭鉱王と再婚し社会運動家宮崎龍介と恋愛、婚家を去りました。佐々木信綱門下。

 
ひむがしの山ふところに月も寝て男女(をとこをんな)もみなしづまりぬ
明け初めし四条通は覚めやらで電灯あはし朝霧の中に

*中村楼  作者 祇園三女、梶、百合、町
 

中村楼は応仁の乱のころからか、現在の八坂神社、石の鳥居内に位置する料亭です。

梶女は元禄、宝永のころ、祇園感神院(八坂神社)境内の茶屋に居た女です。友禅の創始者、宮崎友禅斉と親交があり、梶女の歌集には友禅斉の絵が多くそえられていますが、絵の様子は、現在の中村楼の表の茶屋そのままであります。百合はその娘、町は孫であり、南画家、池大雅の妻です。

 
雪ならば梢にとめてあすやみむよるのあられの音のみにして
梶女
見るひとのおしむ心をさぞとしもしらずや花をさそふはるかぜ
百合女
なつの夜のあさ沢ぬまのみなぞこに影もみだれてほたるとびかふ
町女

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